“世界の富士フイルム”を目指して - 世界企業への道
カラーフィルムの輸入自由化と関税率の引き下げで幕を開けた1971年(昭和46年)は、ニクソン米大統領の新経済政策の発表、それに伴う円切り上げと、経営環境の一大変動が相次ぐ。当社の業績も、一時的に低迷を余儀なくされる。日本経済、そして写真感光材料業界の“国際化”という新しい事態に対応して、当社は経営陣の若返りを図り、同年6月、小林社長は会長に就任、後任社長に専務取締役平田九州男が就任する。平田社長は、「“国産化”の時代は終わった。これからは、“国際化”という大きな課題に立ち向かうときであり、“世界企業への道”を目指すことこそ当社の歩む道である。」との一大企業戦略を打ち出す。
自由化と関税率の引き下げ
1970年代になって,写真感光材料の輸入は,完全自由化の時代に入った。
1971年(昭和46年)1月に,一般用カラーロールフィルムの輸入が自由化されたことにより写真感光材料の輸入は,すべて自由化され,外国製品が自由にわが国に輸入されることになった。また,資本自由化の面でも,1971年(昭和46年)8月に行なわれた第4次資本自由化のときに,写真感光材料製造業は第1類自由化業種に移行し,外資の持株比率が50%を超えない合弁会社の設立が許可されることになった。さらに,翌1972年(昭和47年)7月の日米通商協議では,カラーフィルムとカラー印画紙を除く写真感光材料のバルク輸入と加工包装業の実質100%自由化が合意された。そして,1973年(昭和48年)5月には,最終の第5次資本自由化で,写真感光材料製造業は「一定期間後自由化する業種」として指定され,3年後の1976年(昭和51年)5月には,写真感光材料製造業は第2類自由化業種に移行し,完全に自由化された。
関税率の引き下げも引き続き,急ピッチで進んでいった。
1971年(昭和46年)4月,カラー感光材料の関税率は,一般用カラーロールフィルムや8mm映画用カラーフィルムおよびカラー印画紙が40%から26%に,映画用カラーフィルムが30%から23%に,それぞれ引き下げられた。同時に,1973年(昭和48年)4月から1年間は,これらカラー感光材料の関税率はすべて20%の暫定税率にすることに定められた。
ところが,日米通商交渉での米国の強硬な引き下げ要請に応じて,翌1972年(昭和47年)4月に,関税率の引き下げが繰り上げ実施されることになった。これによって,カラーフィルムの関税率は,従来税率26%のものは23%に,23%のものは20%に,それぞれ引き下げられ,同時に,従来20%であったX-レイフィルムの関税率も18%に引き下げられた。さらに,同年11月には,対外経済調整のために関税率が一律20%カットされることになり,写真感光材料の関税率も一律20%引き下げられた。次いで,1973年(昭和48年)4月からは,すでに定められたとおり,カラーフィルムとカラー印画紙の関税率は一律20%となり,しかも,これに対外経済調整の一律20%カットが適用されたために,実際の関税率は16%に引き下げられた。
その後,日米貿易摩擦に起因する日米交渉の中で,わが国の輸入を増大させることを目的として,1978年(昭和53年)3月に,いわゆる関税率引き下げの前倒しが実施され,写真感光材料の関税率も第1表の通り引き下げられた。
また,GATTを舞台として続けられていた多角的貿易交渉(いわゆる東京ラウンド)は,1979年(昭和54年)4月に実質的に妥結したが,この多角的貿易交渉の中で,関税率の一括引き下げは最も重要な課題であった。写真感光材料の関税率は米国の強い引き下げ要求があり,交渉は難航したが,カラー感光材料を大幅に引き下げることにより第2表の通り妥結した。
東京ラウンドの妥結を伝える新聞記事
朝日新聞 1979年(昭和54年)4月
この交渉妥結により,関税率は,1980年度(昭和55年度)から引き下げ幅の8分の1ずつを毎年度段階的に引き下げていくことに決められた。この結果,1980年代に入って写真感光材料の関税率は,1980年(昭和55年)4月,1981年(昭和56年)4月と,年次ごとに段階的に引き下げられ,翌1982年(昭和57年)4月には,貿易摩擦による対日批判を緩和するため,一挙に1984年度(昭和59年度)の予定水準まで2年分を繰り上げて引き下げられた。
さらに,わが国市場の開放対策として関税率の引き下げが検討され,1983年(昭和58年)4月には,写真感光材料については印画紙を除いた他の製品について,東京ラウンドで合意された最終年度の税率まで一挙に繰り上げて適用されることになった。これら関税率の推移は第3表の通りである。
なお,その後も関税率の引き下げが進められており,1984年(昭和59年)4月には,カラー印画紙は5.8%に,黒白印画紙は7.5%にそれぞれ関税率が引き下げられた。
品名 | 関税率 | |
---|---|---|
改正前 | 改正後 | |
カラーフィルム | 15% | 11% |
カラー印画紙 | 16% | 11% |
X-レイフィルム | 14.4% | 11% |
その他の黒白フィルム | 12% | 9% |
- (注)黒白印画紙は10%のまま据え置き
品名 | 関税率 | |
---|---|---|
交渉当時 | 交渉妥結(最終税率) | |
カラーフィルム | 11% | 4% |
カラー印画紙 | 11% | 4% |
X-レイフィルム | 11% | 8.2% |
黒白フィルム | 9% | 7.2% |
黒白印画紙 | 10% | 7.2% |
品名 | 関税率 | ||||
---|---|---|---|---|---|
1978年 (昭和53年) 4月1日から |
1980年 (昭和55年) 4月1日から |
1981年 (昭和56年) 4月1日から |
1982年 (昭和57年) 4月1日から |
1983年 (昭和58年) 4月1日から |
|
カラーフィルム | 11% | 10.1% | 9.3% | 6.6% | 4% |
カラー印画紙 | 11% | 10.1% | 9.3% | 6.6% | 6.6% |
X-レイフィルム | 11% | 10.7% | 10.3% | 9.3% | 8.2% |
黒白フィルム | 9% | 8.8% | 8.6% | 7.9% | 7.2% |
黒白印画紙 | 10% | 9.2% | 9.2% | 7.9% | 7.9% |
小林会長,平田社長の就任
このように,1970年代に入って当社をめぐる環境が大きく変わってきた中で,1971年(昭和46年)6月18日,当社は経営陣の大幅な若返りを図った。すなわち,社長小林節太郎は代表取締役会長に就任し,専務取締役平田九州男が後任社長に就任した。
小林会長は,1960年(昭和35年)6月に社長に就任して以来11年間,貿易自由化が進んでいく厳しい環境の中で経営の重責を担ってきた。この間,シングル-8システムやカラーフィルムの開発をリードし,当社が世界市場へ進出する足場を固めるとともに,電子写真,磁気記録材料,PS版,感圧紙などの新規事業を積極的に推進し,当社経営の多角化を進めてきた。
小林節太郎会長,平田九州男社長就任披露
社長に就任した平田九州男は,1933年(昭和8年),大日本セルロイドに入社し,1934年(昭和9年)1月,当社創立と同時に当社に入社した。1950年(昭和25年)経理部長となり,1954年(昭和29年)取締役に選任された。その後,1964年(昭和39年)常務取締役に就任,1966年(昭和41年)には営業本部長を委嘱され,1969年(昭和44年)に専務取締役に就任した。そして,ここに新しい時代を迎えて社長に就任し,当社経営の重責を担うことになったのである。
平田新社長は就任に当たって,従業員に対し,開放経済体制に入った今日,企業の総合力としての国際競争力の強化こそ最大かつ緊急の課題であることを説き,そのために経営効率の一層の向上と企業体質の改善を図ることを求めた。社長就任の翌1972年(昭和47年)にも「フィルムの“国産化”という使命のもとに創立された当社は,今や“国際化”という大きな課題に立ち向かうに至っている」と述べ,当社の今後の方向として,国際社会において世界の人びとの需要と幸福を満たす“世界企業”を目指すことを示し,当社の企業体質をこの目標に応え得る体質へと改善していくことを重ねて要請した。
トップマネジメント運営体制の強化
経営環境が激しく変化していく中で,会社の政策をタイミングよく決定し,日常業務を機動的に執行していくためにトップマネジメントの運営体制も強化した。
1970年(昭和45年)8月に,従来からの常務会とは別に,新たに代表取締役以上を構成員とする経営会議を設け,これをグローバルな見地から経営戦略を策定するための最高審議機関として,日常業務とは区分して経営の基本的政策を討議する場とした。
1979年(昭和54年)1月には,従来の常務会を業務会議と改め,業務会議で,年度予算や事業計画その他の業務執行上の重要事項を審議することとした。
その後,経営環境の変動がますます激しくなってきたのに対応して,経営戦略の迅速な策定・推進のために,経営会議と業務会議は,より一層重要な役割を果たしている。
“ニクソンショック”の襲来と円の切り上げ
ニクソン声明を伝える新聞記事
朝日新聞 1971年(昭和46年)8月
平田新社長就任後2か月もたたない1971年(昭和46年)8月16日,日本経済に一大ショックが襲った。いわゆる“ニクソンショック”である。
米国ニクソン大統領は,8月15日全米向けのラジオ・テレビを通じて,国内インフレ抑制のために,ドルと金の一時的な交換停止と10%の輸入課徴金の新設を発表した。ドルと金との交換停止は,戦後の自由世界の国際的な経済活動を支えていたドルを基軸通貨とするIMF体制の根幹を揺るがすもので,国際通貨体制を一大混乱に陥れた。
この事態にあって,日本も8月28日,1ドル360円の固定相場を放棄し,変動相場制に移行した。1949年(昭和24年)4月以来20年以上続いてきた1ドル360円時代に終わりを告げたのである。
この国際通貨情勢の混乱に対処するため,同年12月,ワシントンのスミソニアン博物館に先進10か国の大蔵大臣が集まって,通貨の多国間の調整のための会議が開催された。その結果,ドルの金に対する切り下げをはじめ,円とマルクの対ドル切り上げなど多国間の通貨調整で合意をみた。円は旧レートの1ドル360円から16.88%切り上げられ,1ドル308円の固定レートが復活した。
しかし,その後も国際通貨不安は収まらず,1973年(昭和48年)2月にはドルが10%切り下げられ,各国の外国為替市場は混乱し,円は再び変動相場制に移行した。
写真感光材料の輸入が完全に自由化された直後で,しかも関税率の引き下げが進んでいる中での円の切り上げ,それも16.88%という大幅な切り上げは当社経営にとって重大な意味をもっていた。すなわち,円切り上げは,その分だけ輸入価格の値下げを可能とするものであり,事実,1972年(昭和47年)1月には,海外メーカーは輸入品の値下げを実施した。
このような国際経済環境の激変の中で,当社は,平田新社長の指導のもと,ワールドエンタープライズを目指して新たなチャレンジを開始した。
業績の低迷,減益決算へ
厳しい経済環境の中で,当社の業績もまた低迷を余儀なくされた。
すなわち,1971年度(昭和46年)には,万博需要の終えんに伴って,一般用カラーフィルム自体の売り上げが伸び悩んだうえに,同年1月にはカラーロールフィルムの輸入自由化,同4月からは輸入関税率の大幅引き下げが実施され,国内における競争が激化した。また,経済不況の影響から,X-レイフィルムや印刷製版用フィルム,感圧紙などの売り上げが伸び悩みないし低下を示し,4月期の当社総売上高の対前期伸び率は7.4%と1けた台に低迷した。一方,足柄工場におけるカラーフィルムの新工場や富士宮工場におけるX-レイフィルム工場の建設など,大型の設備投資も相次いだ。借入金の増加に伴う金利負担や償却費の増大に加え,試運転経費や人件費あるいは販売経費の増加もあって,利益は38億2,700万円と対前期2.7%の減益を記録した。これは,1963年(昭和38年)4月期以来,16期8年ぶりの減益であった。
続く1971年(昭和46年)10月期および1972年(昭和47年)4月期には,カラーフィルム輸入自由化の影響やニクソンショック,円切り上げに加えての関税率引き下げに伴う輸入品の価格攻勢などへの対応を迫られたことなどにより,売上高の対前期伸び率は,それぞれ,1.3%増,2.8%増と微増にとどまった。それに対し,人件費・償却費などの諸経費や金融費用の増加は売上高の伸びを上回ったため,利益は,それぞれ,対前期10.2%減,8.1%減と連続して前期を大幅に下回り,半期べースで3期連続の減益決算を余儀なくされた。
1972年(昭和47年)10月期には,ようやく経済全体が上向きに転じたことと全社的な合理化や経費の効率的使用などによって,増収・増益基調を回復した。1973年度(昭和48年度)に入ってからも,引き続き販売増とコストダウンの努力の成果が実って,この基調を維持できた。しかし,年度末の10月に第4次中東戦争がぼっ発し,情勢は大きく変わっていった。