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売上高1,000億円,資本金100億円を達成

 

1960年代の10年間、写真需要の拡大とカラー写真の急激な増加によって、写真感光材料事業が大きく伸長する。他方、磁気記録材料、感圧紙、PS版、電子写真などの新規事業に相前後して進出し、事業の多角化が進む。この間、写真感光材料の輸入の自由化が進む中で、輸出の増加とコストの引き下げに努め、1970年度(昭和45年度)の売上高は1,000億円を突破し、利益も向上する。2度にわたり倍額増資を実施、1964年(昭和39年)には、当社資本金は100億円となる。そして、1969年(昭和44年)には、新本社ビルを建設する。また、この年、当社ADRがニューヨークで発行される。翌1970年(昭和45年)には、外貨建転換社債を発行する。

売上高1,000億円へ

1960年(昭和35年)を迎えた当時の当社の主たる販売品目は,写真フィルム,印画紙,乾板,写真薬品,光学製品,光学ガラスおよび紙であったが,このうち,写真フィルムや印画紙などの写真感光材料が全売上高の80%強を占めており,次いでカメラなどの光学製品が10%強を占めていた。年間売上高は181億円,輸出比率はわずかに4.2%に過ぎなかった。

1960年代の10年間,わが国経済は大きく発展したが,当社もめざましい飛躍を成し遂げた。写真需要は拡大し,とりわけカラー写真が急激に伸びてきた。当社の写真感光材料の生産数量も増加し,1970年(昭和45年)までの10年間で,黒白・カラーを合算して,写真フィルムは4倍弱,印画紙は約5倍の伸びとなった。

このように,銀塩写真感光材料の分野で著しく伸長する一方,新規事業分野も大きく展開していった。磁気記録材料事業・感圧紙事業・PS版事業と,その後大きく育っていった新規事業が,いずれも,この期間に相前後してスタートした。また,電子写真分野で,富士ゼロックス社の事業もスタートした。

その結果,1970年度(昭和45年度)の当社の総売上高は1,003億円となり,この10年間で,売上高は5.5倍(年率18.6%の伸び)になった。製品別の内訳では,写真フィルムや印画紙などの写真感光材料が,売上高で10年間に4.7倍(年率16.7%)の伸びを示し,依然として当社の主力製品であることに変わりはなかった。しかし,新規事業分野が売上高に寄与しはじめたのに伴い,1970年度(昭和45年度)では,写真感光材料のウエイトは約70%となった。また,輸出比率も,1970年度(昭和45年度)には,13.7%にまでアップした。この間,貿易自由化に対処するため,コスト引き下げと体質改善に努めた結果,1970年(昭和45年)度の税引純利益は,75億7,000万円,利益率7.5%と向上した。

しかしながら,この1970年(昭和45年)の後半,万国博覧会の閉幕とともに,日本経済はポスト万博不況といわれる景気後退期を迎え,やがて国際経済の大きな変動のもと,低成長期に入り,当社の経営もまた苦難期を迎えることになった。

資本金100億円へ

[写真]増資目論見書

増資目論見書

既存事業の拡大と新規事業への進出には,膨大な資金が必要であった。

そのため,資金の調達と財務体質の強化を目的として,1961年(昭和36年)10月,資本金を倍額増資し,新資本金を50億円とした。この増資資金は,主として,足柄工場におけるカラーフィルム生産能力の増強と,印画紙用原紙の生産のための富士宮工場の建設資金の一部に充当した。

その後も,カラーフィルム工場の増設やTACフィルムベース工場の増設,PETフィルムベース工場の建設・事務用印画紙工場の建設・磁気記録材料工場の建設・感圧紙工場の建設など,大型の設備投資が相次ぎ,所要資金が急増した。このため,1964年(昭和39年)8月に再び倍額増資を行ない,新資本金を100億円とした。この増資資金は,足柄工場のフィルム生産合理化設備・機器などの研究設備・小田原工場のゼロックス機材増産設備・富士宮工場の感圧紙製造設備などに充当した。

しかし,この間の所要資金は増資だけではまかないきれず,社債の発行と金融機関からの借入金にもその多くを依存した。社債を含めた借入金総額は,1960年(昭和35年)10月20日現在の約30億円から,1970年(昭和45年)10月20日現在には,割引手形残高も含めて,317億円へと,10年間で10倍に膨張した。

ADRの発行および外貨建転換社債の発行

[写真]モルガン・ギャランティ・トラスト社が発行した当社ADR見本

モルガン・ギャランティ・トラスト社が
発行した当社ADR見本

1960年代の日本経済のめざましい発展は世界の注目を集め,日本の株式に対する外国人の投資が年々増大してきた。ところが,外国の投資家に取得された株券は,そのほとんどが日本国内の保管機関に預託されることになるため,外国での日本株式の流通にはなにかと不便が伴っていた。そこで,外国人が取得した株券の見返りに,信用のある外国の銀行が一種の預り証を発行し,それに株券と同じような役割を果たさせる方法が考案された。米国で発行する預り証(預託証券)をADR(American Depositary Receipts)と称している。

当社は,高成長を続ける優良企業として,外国人投資家の間でも高い人気を得ており,外国人投資家の持株比率は年々増加の傾向にあった。こうした当社株式の人気に目をつけて,米国の有力銀行,モルガン・ギャランティ・トラスト社は,1969年(昭和44年)8月,三井銀行を株券の保管銀行として,当社株式のADRを発行した。

モルガン銀行の手でADRが発行されたことは,当社の成長性が国際的に高く評価されたことを意味し,当社は,海外での知名度を高め,国際企業として大きな第一歩を踏み出した。

一方,日本経済の国際化の進展に伴って,新しい資金調達手段として外貨建転換社債が登場してきた。当社も,海外での転換社債の発行について検討を重ね,1970年(昭和45年),証券会社メリル・リンチ社を主幹事として,ヨーロッパで1,500万ドルの転換社債を発行することとした。

当社株式が海外で人気を博していたこともあり,転換社債の人気も高く,同年12月1日,ニューヨークにおいて,幹事会社との間で引き受け契約の調印を行なった。その概要は次のとおりであった。

  • 発行地  ヨーロッパ
  • 発行総額  1,500万USドル(54億円)
  • 発行価額  額面価格の100%
  • 利率  年6.75%
  • 転換価格  490円60銭
  • 転換請求期間  1971年(昭和46年)3月1日から1985年(昭和60年)10月19日

この海外転換社債の発行は,主として,後述する富士宮工場におけるX-レイフィルム工場の建設資金の一部に充当したが,国内での調達に比べ安いコストで資金調達ができただけでなく,海外金融機関や投資家が当社についての認識を深めるうえでも大きな役割を果たした。

なお,その後,当社株式の価格が上昇したこともあり,転換社債の株式への転換は予想を上回るテンポで進み,1977年(昭和52年)4月に,全額を繰り上げ償還した。

東京本社ビルの建設と新社歌の制定

1969年(昭和44年)6月,東京港区西麻布に,地上18階,地下3階,軒高71mの,当時日本で6番目の高さを誇る変形菱形のスマートな高層ビルが出現した。新しい東京本社ビルの誕生である。

[写真]東京本社ビルとその周辺 1971年(昭和46年)当時

東京本社ビルとその周辺 1971年(昭和46年)当時

[写真]富士フイルム社歌 富士フイルムの歌

当社の東京事務所は,終戦直後,東京銀座の中島ビルに再開して以来,同ビルを本拠としてきた。しかし,業務の拡大と人員の増加に伴い,同ビルだけでは手狭となり,近隣数か所に事務所を分散し,営業部門の一部は神田地区に移転して業務を遂行してきた。

当社経営の中枢であり,営業活動の本拠でもある東京事務所が各所に分散していることは非効率でもあり,東京本社の建設についてかねてから検討を重ねてきた。しかし,当社は,設備投資について品質第一の考えに立って,これまで研究設備や生産設備の改善・増強のための投資を優先的に実施してきたので,本社ビルにまでは手が回らなかった。

しかし,国際化時代を迎えて,経営の効率を高め,全社の機能を総合して国際的な企業活動を展開していくためには,それにふさわしい本社事務所が必要である。そこで,かねて取得していた東京西麻布の用地に,創立35周年記念事業の一環として当社ビルを建設することとした。

東京本社ビルは,芦原義信建築設計事務所の設計と鹿島建設株式会社の施工によって完成したが,写真フィルムの透明感やスマートで軽快というイメージをみごとに表現したデザインの斬新さが評価され,1971年度(昭和46年度)の建築業協会賞受賞の栄に輝いた。

東京本社ビルの完成により,長い間,諸所に分散していた東京本社各部門および東京営業部門を同ビルに集中した。それを機に,マイクロ写真システムを活用して新しい文書ファイリングシステムを導入するなど,事務の効率化を一段と進めた。

また,本社ビルの建設と同時に,新しい「富士フイルムの歌」の制定を企画し,1969年(昭和44年)6月,新社歌を制定した。それまでの社歌は1939年(昭和14年)に制定された初代社長淺野修一作詞のものであったが,新しい時代にふさわしい内容のものに改めることとしたものであった。歌詞は社内から募集して,限りなく発展する当社の姿を力強く表現するものとし,明るくさわやかな歌として誕生した。

ここに,新旧の社歌を掲載し,長く歌いつがれてゆく記念としたい。

役員の叙勲および森田茂吉の永眠

[写真]勲三等旭日中綬章を受けた春木榮会長

勲三等旭日中綬章を
受けた春木榮会長

[写真]勲二等瑞宝章を受けた小林節太郎社長

勲二等瑞宝章を
受けた小林節太郎社長

1960年代から1971年(昭和46年)にかけて,当社の役員は,次のような叙勲・受章に輝いた。

会長春木榮は,1969年(昭和44年)11月,写真感光材料の工業化と特許管理の進歩を推進した功績で,勲三等旭日中綬章に輝いた。

社長小林節太郎は,1964年(昭和39年)10月,藍綬褒章を受け,後に1970年(昭和45年)11月には,写真産業の振興などの功績が認められ勲二等瑞宝章を受章した。

また,1966年(昭和41年)9月,副社長藤澤信は紫綬褒章を,1971年(昭和46年)3月,副社長竹内喜三郎は藍綬褒章を,それぞれ受章した。

しかし,喜ばしいことばかりではなかった。1962年(昭和37年)2月,当社創業の功労者(元大日本セルロイド取締役社長,元当社相談役)森田茂吉が,数え年98歳の天寿を全うして永眠した。生前の功績によって,勲二等を追贈された。大日本セルロイドと当社の合同社葬には,参会者が延々と長蛇の列をつくり,故人の遺徳を偲んだ。

[写真]元相談役森田茂吉の合同社葬

元相談役森田茂吉の合同社葬

馬場遺跡の発掘

[写真]馬場遺跡公園

馬場遺跡公園

1966年(昭和41年)5月,足柄工場の当社社宅用地(地元で馬場と呼称している地域)で採土工事を行なっていたとき,敷石住居跡の一部と土器片・石器などの遺物が発見された。当社は,その後,同年6月から1971年(昭和46年)3月にかけて,4次にわたって発掘調査を行ない,敷石住居跡・竪穴住居跡・配石遺構・破砕石の集積跡および土器・石器などの遺構・遺物を発見した。

これらの遺構や遺物は,およそ紀元前3000年頃,縄文時代後期の人びとの生活の跡と考えられ,すでにその当時,ここで生活していた人びとがいたことを示す貴重な考古学上の遺跡であった。これらの遺跡は「馬場遺跡」と名付けられたが,当社は,発掘調査のあと,これらの遺跡を永久に保存し,後世に伝えるために付近一帯を遺跡公園として保存している。

 
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