オイルショックの襲来 - 省エネルギー、省資源の追求
1973年(昭和48年)10月、石油危機が世界各国を直撃、日本経済は、それまでの高度成長から低成長路線への転換を余儀なくされる。当社は、石油の消費規制、購入原材料の納入削減によって、生産調整を行なわざるを得ず、また、原材料や燃料の値上げによる大幅なコストアップに悩まされる。これに対し、省エネルギー、省資源、包装合理化などコストダウン活動を強力に推進する。カラーフィルムの輸入自由化と資本自由化、円切り上げによる難局をようやく乗り切ったところへ、この石油危機という一大パンチに見舞われ、1974年度(昭和49年度)から1975年度(昭和50年度)にかけて、2年連続の減益という苦難期を迎える。
石油危機への対応 - 節約作戦の展開
オイルショックによる
生活必需物資の買い急ぎ
1973年(昭和48年)10月にぼっ発した第4次中東戦争を機に,アラブ産油国は石油生産の削減と原油価格の大幅引き上げという石油戦略を発動し,“オイルショック”が世界を襲った。このオイルショック,すなわち第1次石油危機は日本経済に大きな影響を与え,経済活動に大混乱をもたらしたが,当社の経営にも大きな影響を与えた。
まず,直接的な影響としては,石油や電力の消費規制によって足柄工場をはじめ各工場で正常な生産活動に支障をきたし,そのため生産調整を行なわざるを得なかった。また,購入原材料についても納入削減あるいは納期遅延が相次ぎ,この面からも減産や調整を余儀なくされた。幸い需要先に大きな迷惑をかけるには至らなかったものの,当社としてはその対策に悩まされた。
しかし,もっと大きな影響は原材料や燃料の値上げに伴う大幅なコストアップであった。フィルムベースをはじめ,各種薬品あるいは包装材料などの多くは石油化学製品であり,原油価格の引き上げはそれらの原材料の値上げとなってはね返ってきた。重油や電力料金の値上げも,そのままそっくり当社のコストアップ要因となるものであった。
もうひとつ,当社にとってさらに悪いことには,写真感光材料の主原料である銀の価格の高騰という悪条件が重なった。すなわち,1972年(昭和47年)には1kg当たり1万5,000円台から1万8,000円台であった銀の価格は,翌1973年(昭和48年)に入ると,世界的なインフレの進行とそれにからむ国際通貨不安に伴って上昇速度を速め,1974年(昭和49年)には投機的な動きも加わり,同年3月前半には1kg当たり建値で5万8,500円と,これまでの最高値を記録するに至った。わずか2年足らずの間に3倍以上になったのである。
こうして当社は二重の困難に遭遇したが,すべてのコストアップ分を製品価格に転嫁することはとうてい不可能であり,当社は,これらコストアップ要因を可能なかぎり社内で吸収するため全力をあげた。
足柄工場では,1973年(昭和48年)11月,エネルギー対策委員会と原材料対策委員会を設置して,それらの節約策について検討を行なった。そして,単にエネルギーや原材料にとどまらず,工場全体の活動の見直しを行ない,これまでの仕事のやり方のすべてを洗い直し,無駄を排除して節約できるものはすべて節約しようというマル節運動を展開した。
また,1974年(昭和49年)1月を特別提案月間として「エネルギー節減」を課題とした提案を募集した。その結果,多くの提案がなされ,実行可能なものから実施に移していった。
こうした努力の結果,足柄工場では電力使用のピーク時に当たる1月度・2月度に,前年同月比で1割以上の電力使用量の節減を実現することができた。これと同じような運動は,東京本社や他の工場でも積極的に行なわれ,全社的な運動として展開し,それぞれ大きな成果を収めた。
しかし,オイルショックに伴うコストアップは,それらの節減でカバーするには余りにも大き過ぎた。当社では,より長期的な視野に立って,エネルギー節約や広範囲にわたる省資源対策,あるいは銀使用量の少ない製品の開発などを,きめ細かく,しかも精力的に推進していった。
省エネルギーの推進
オイルショックの新聞記事 朝日新聞
1973年(昭和48年)11月
原油価格の高騰に対処するには,まず第一に重油と電力の使用量を減らすこと,すなわち“省エネルギー”を徹底させることが肝要であり,また工場個々でなく全社を一本化して対策を講じることが効率的でもあった。このため当社は,1974年(昭和49年)11月,全社エネルギー対策推進チームを編成し,省エネルギー活動を強力に推進した。
まず,日常管理による節減としては,蒸気配管の保温補修や配管の整理統合,室内照明の節電,冷暖房用空調機の運転管理強化などであり,廃熱の再利用としては,蒸気ドレン再利用,廃熱風・廃温水の再使用,発電タービン復水熱のボイラー給水加熱への利用などがある。一方,省エネルギー目的の工程改善では,低露点外気の利用と送風機およびポンプ回転数のダウンと回転数制御などがあり,さらに積極的には,生産性向上を進めることにより,生産量単位当たりの使用エネルギーを節減することとし,設備の改造や製造条件の検討を進めた。
その結果,製品の生産にかかった単位当たりエネルギー総費用は,1974年度(昭和49年度)に比べ,1975年度(昭和50年度)5%,1976年度(昭和51年度)10%,1977年度(昭和52年度)20%,1978年度(昭和53年度)30%と,年を追うごとに節減の成果があがってきた。
原油価格の推移(アラビアン・ライト 昭和40年~58年)
省資源活動の推進
各工場の省エネルギー・
省資源活動(工場報から)
省資源活動は,各工場ごとに日常活動として進めてきたが、“オイルショック”の襲来に伴って全社的な活動として強力に推進することとし,1974年(昭和49年)11月,原材料コストダウン推進チームを編成した。
このチームは,コストダウン実施目標を具体的に金額設定し,各工場や研究部門は,それぞれ下部組織の推進チームをもって次のような活動を積極的に展開した。
- 原材料品質の見直しによる過剰品質の排除
- 製造処方と工程の改良による低価格代替原料への転換
- 工程安定化,原材料節減とロス減少など,原単位アップによる省資源
- くず廃棄物の回収再利用と有効活用
- 新製品・改良品の研究開発に当たって,省資源型・低価格原料の導入を重視した商品設計の推進
その結果,目標を上回る大きな成果をあげることができた。
包装合理化によるコストダウン
包装合理化の活動は,すでに1972年(昭和47年)5月以来,営業部門,各工場,生産技術研究所,宣伝部,資材部など関係部門一体となって,包装スペックの改善研究を進める形で実施していたが,1973年(昭和48年)11月,包装合理化センターを編成し,より強力に包装材料のコストダウンを推進することとした。包装合理化センターでは,それぞれ製品ごとに包装形態を見直し,製品包装の合理化を具体的に検討した。その活動内容としては,単に包装材料の合理化にとどまらず,物流実態の把握とその改善にアプローチし,物流費との関連も含めトータル的な見方でコストダウンを推進した。
また,1977年(昭和52年)6月には外部コンサルタント会社と包装コストダウンに関する契約を結び,4年間にわたって現状分析と改善方向を検討した。その結果,
- 紙器材料等の斤量削減,プラスチック材料の軽量化,各種共通包装材料の統合化など省資源に関するもの
- 新包装材料,包装加工機,包装形態,成型方式,印刷システムなど,技術革新に関するもの
- 加工作業や少量多品種包装材料製造方法など,製造システム改善に関するもの
について数々の改善が進み,所期の成果が得られたほか,検討段階で習得した合理化手法や入手した各種技術情報なども当社にとって有益なものであった。
省資源を目的とした
大型機器包装のコンテナ化
省資源とフィルムの種類の
識別の容易化のために透明化した
35mm判フィルムのプラスチックケース
包装合理化を目的とした
マイクロフィルム包装のプラスチック化
全治3年 - オイルショックの影響
第4次中東戦争に起因する第1次オイルショックの発生は,当社の決算にも大きな影響を与えた。
すなわち,1973年(昭和48年)末から翌1974年(昭和49年)前半にかけて,重油の数量割当や入荷の不安定に加えて,原材料中に多い石油化学製品が価格高騰のうえに入荷遅延が相次ぐなど,生産計画に支障をきたし各工場ともその調整に苦心した。
1974年(昭和49年)4月期は,それでも期前半の販売伸長などがあったため売上高は対前期10.7%増となったものの,原材料価格の大幅アップを一部製品の価格改訂ではカバーすることができず,利益は対前期3.3%減と再び減益を記録した。
さらに,同年10月期には,産業界全般が不況に落ち込む中で,印刷関連製品,マイクロ写真機材,感圧紙などの産業材料用製品の売り上げが減少し,また,主力商品である一般用カラーフィルムも伸び悩んだため,総売上高の伸び率は対前期6.6%増と1けた台にとどまった。これに反し,銀をはじめとする原材料が値上がりを続けたうえ,販売不振による一部生産調整の実施などによって生産コストが上昇し,利益は対前期16.3%減と大幅な減少となった。
この傾向は,1975年度(昭和50年度)にも持ち越された。この年から当社は年1回決算に移行したが,中間決算では売上高が前年10月期の1.0%増とほぼ横ばいであったのに対し,諸経費・人件費あるいは販売費増などのコストアップ要因が重なり,利益は前年10月期に対して21.0%減と大きく落ち込んだ。
しかし,同年下半期からは,ようやく一般用カラーフィルムやカラーぺーパーの販売が上向きに転じ,また,産業界向けの分野にも回復の兆しがみえてきたのに加え,輸出が,これまでの努力の成果が実って対前年度30%以上の急激な伸びを示したため,年間の売上高も対前年度9.3%増と増勢を回復,利益も対前年度12.9%減とはなったものの,減益基調に一応の歯止めをかけるに至った。
さらに,翌1976年度(昭和51年度)には,カラー関係製品の好調持続,印刷製版用製品をはじめとする業務用製品の堅調,また,輸出の対前年度35.7%増という大幅増加などにより,年間売上高は,対前年度18.0%増の2,267億円を記録した。この間,低成長時代に対応する企業体質づくりを進めた効果も現われ,利益は対前年度66.4%増の100億6,500万円と,初めて100億円の大台を突破することができた。
第1次石油危機の発生以来3年,当社も苦難の時期をひとまずは乗り越え,ようやく石油危機以前の水準を回復することができたのであった。