業務効率化の進展と労使関係の推移
貿易自由化の進展に伴う経営環境の変化と事業規模の拡大に伴い、当社は、経営管理組織の整備強化を図る。また、コンピュータの活用をさらに進めて、わが国の製造業では初めて製品管理オンラインシステムを開発する。一方、業容の拡大に伴い、当社の従業員数は飛躍的に増加し、人事施策がより一層重要な問題となる。その施策の一環として、従業員の自己申告制度や目標管理制度を導入し、工場においてはRM(Results Management)制度が発足する。提案活動も活発化していく。また、生産面では、品質管理やIE活動も製造現場第一線に定着し、品質の安定・生産性の向上が図られていく。一方、労使関係は、一時、労働協約失効という事態を迎えるが、その後、新しい労使関係が確立する。
経営管理組織の整備
貿易自由化の進展に伴う経営環境の激変と事業規模の拡大とともに,当社は,経営管理の面でも,その対応を図っていった。
1962年(昭和37年)8月に本社組織を改正し,従来の管理部を企画部と改め,新たに企画部・開発部・商品部を総括する企画室を設け,事業計画の立案体制を充実した。また,企画室が常務会事務局となり,常務会の運営体制も整備した。
営業部門では,事業分野の拡大に伴って,1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)にかけて,産業材料部・紙業部・オフセット機材部など担当営業部門を設けてきた。これら新規事業を早急に軌道に乗せるため,1964年(昭和39年)7月,国内営業部門を2部門に大別して,新規事業分野を営業第二部長に統括させた。さらに1966年(昭和41年)10月には,輸出部門も含めた全営業部門を一本化して統括する営業本部長を置き,国際化時代に備えての営業組織を強化した。
営業年度方針の明示
当社では,毎年,営業年度のスタートに際し,社長は,その年度の基本方針を全社に示している。従来とも,経営首脳部は,機会あるごとに従業員にその考え方や方針を示してきたが,このように,年度ごとに,その年度の重点方針を文書をもって明示することが始まったのは,1959年(昭和34年)の年頭に当たって,その年の重点事項として春木社長が次の3項目を全社に示したことが始まりである。
- 新製品・改良品による新しい需要の開拓
- 輸出の増加
- カラーの一般化
翌1960年(昭和35年),写真感光材料の貿易自由化がスタートする年を迎え,春木社長は年頭基本方針を次のとおり全社に指示した。
貿易自由化の情勢に対処する諸方策を推進すること
- 当社製品に国際競争力をつけること
- 新技術の確立
- 新規需要の積極的開拓
- 販売組織の整備強化
- 長期経営計画の確立
- 全社一致の協力体制をとること
以降,毎年年頭に,その年の基本方針を社長通達をもって役員・部課長に通達し,また,各部課内での会議や社内報などによって全従業員に周知徹底を図った。この基本方針がその年の業務計画の基本となり,従業員の日常活動のよりどころとされてきたのであった。
その後,この社長基本方針を会社の営業年度の諸計画と密接に結び付けるために,通達の時期を会社の営業年度初め(前年の10月21日)に改めた。社長が自らの所信とその年度の経営上の重点方針を指示し,この基本方針に基づいて,事業場長・部門長以下がその年度の具体的目標を設定し,それぞれの業務を推進していく体制を確立したのである。
コンピュータの導入と製品オンラインシステムの開発
1960年代には,コンピュータの進歩によって,コンピュータが経営管理の強力なツールとして用いられはじめた。当社は,業務の効率化を推進するため,いち早くコンピューターに着目し,製品オンラインシステムの開発を企図し,1964年(昭和39年)5月,東京本社にIBM1440コンピュータを導入,製品関係の統一伝票の使用を開始した。
翌1965年(昭和40年)には,本社・営業所・工場に端末機を設置して,それらを専用回線で結び,製品のオンラインシステムをスタートさせた。これは,センターのコンピュータに,当時で1万種にのぼる全製品の在庫量を倉庫ごとに記憶させ,販売部門からの注文に応じて在庫を確認したのち,直ちに出荷指図伝票を作成して,該当製品倉庫に専用回線を通じて出荷を指示するシステムであった。製造業では,日本で初めてのオンラインシステムであり,世間の注目を浴びた。事業規模が拡大し,製品の種類と生産数量が増加している折,このシステムの完成によって,全社の製品の入出庫や在庫の状況が即時に把握できるようになり,在庫管理の効率化に大きく寄与した。
また,請求書の作成や販売実績のデータ作成,あるいは経理関係の諸計算もコンピュータで作成するようになり,事務処理の大幅な効率化を達成した。
その後,1968年(昭和43年)1月には,コンピュータの機種をIBM360-40に切り換え,能力アップを図った。これにより,コンピュータの能力は4倍になり,売掛金回収入金管理事務・原料購買事務・原料半製品受払い事務などをオンライン化した。
この年,足柄工場で,OUK9300コンピュータを導入,固定資産管理をコンピュータ処理化するとともに,技術計算にもコンピュータを活用し得るようになった。
その後も,専用回線・端末機・内外記憶容量などを逐次増設し,コンピュータの活用業務を急ピッチで拡大していった。
目標管理制度とRM制度の発足
1960年代に入って,当社の業容は大きく拡大,従業員数も増加し,それに伴って,従業員の能力開発と人材の育成が重要な課題となってきた。そこで,当社は,従来から行なってきたOJT(On the Job Training,日常の仕事の中での教育訓練)に加えて,従業員各層ごとの教育研修を充実・強化し,管理者層をはじめ各層全般のレベルアップを図った。特に,高校卒・大学卒の若年層を対象に,1962年(昭和37年)4月,国内および海外留学制度も新設した。国内留学制度は,大学と学部を特定し,高校卒業者を対象として選抜して通学を認めるものであり,また,海外留学制度は,欧米の著名大学・大学院を特定して,同じく社内選抜された者の中から必要な期間の留学を認めるものである。難関を突破した合格者は限られた人数ではあるが,それぞれのテーマに従って勉学や研究の機会をつかみ,終了後はいずれも当社の強力な戦力として活躍している。
一方,当社では,よりきめ細かな人事管理を行なうために,1963年(昭和38年)から,従業員の自己申告制度を実施した。これは,人材の育成開発とその有効活用を目的としたものであるが,申告者が申告書を直属上長に提出する際,申告内容について上長と十分に話し合い,これを通じて職場第一線におけるコミュニケーションの良化を図ることもねらいとしたもので,適材適所の人材配置を行ない,従業員がそれぞれ,意欲を一段と向上させて業務に立ち向かえるようにした。
目標管理のパンフレット
第1回足柄地区RM大会
1969年(昭和44年)
さらに,1965年(昭和40年)11月からは,管理者層を対象に目標管理制度を発足させた。目標管理制度は,全社の経営目標に沿って各人がそれぞれ自ら達成すべき目標を設定し,それを自己の創意と努力によって達成することで,従業員が自己の能力を会社の目標に効果的に結びつけることを目的として発足したものである。また,これによって,従業員に対して,成果中心主義の考え方と行動を身につけさせ,より高い目標に挑戦する意欲と,そのための自己啓発努力を求め,組織内のコミュニケーションの向上を期待した。
自己申告制度や目標管理制度は,その後,制度の若干の見直しを行なってきたが,今日では,各職場にしっかり根付いた制度となっている。
足柄工場では,この目標管理制度の考え方をさらにオペレーター層に展開するため,1966年(昭和41年)10月,RM制度(Results Management)を発足させた。
RM制度は,職場の第一線作業者が自主的に進めるグループ活動を軸として展開した。職場単位のグループに共通で,しかも自分たちの努力で達成できる身近な問題を自ら考え,職場の上長とも十分話し合い,目標を設定する。この目標の設定と課題解決の活動を通して,メンバー一人一人の創造力の発揮と,企業への自主的参画意識が高められ,それによって,品質の向上やコストダウンなどの作業改善が図られるとともに,現状に甘んじることのない組織風土を醸成することを期待された。1969年(昭和44年)からは,工場各部門のRM活動の参加メンバーが集まってRM大会も開催され,より一層RM活動の理解が深められていった。そして,このRM制度は,少し遅れて他の事業場にも次々と導入されていった。
一方,提案制度についても,1958年(昭和33年)に全社的な制度として改訂されてから,提案の対象も従来の製造現場における作業改善・設備改善を主としたものから,事務の効率化に関する提案や製品の改良や新製品のアイデアに至るまで拡大された。1964年(昭和39年)には,提案制度をさらに定着させ,質の向上を図ることをねらって,従来の個人表彰に加えて職場表彰制度を採り入れた。
その後,提案活動は,工場を中心に活発に展開され,提案件数も次第に増加してきた。提案された創意工夫やアイデアは,各職場で積極的に活用され,作業改善・故障減少に結びついて,職場の生産性向上と安全な職場環境づくりに大きな役割を果たし,また,新製品企画や製品改良のヒントを与えることにも寄与した。
なお,このほか,この期間における人事制度上の重要な改訂や新設としては,1966年(昭和41年)12月,主として管理者層を対象とした資格制度を発足させたこと,および,1970年(昭和45年)5月に発足した育児休職制度などがあった。
品質管理活動の製造現場第一線への定着
1956年(昭和31年)にデミング賞実施賞に輝いた当社は,その後も品質管理の徹底と定着のため地道な活動を続けてきたが,国際競争に耐える企業体質づくりという課題のもとで,品質管理活動は,1960年代に入って,一つの転換期を迎えた。
製造現場における品質管理は,作業標準の制定や管理図の作成という問題に先立って,何よりも一人一人の品質に対する意識の問題が重要である。
これまでの工場における品質管理推進活動は,製造現場の品質向上・生産性向上に大きな成果をあげたが,どちらかといえばスタッフ主導型の色彩が強く,製造現場の自主性という面で,その推進方法について反省すべき点も生じてきた。
足柄工場では,この反省に基づき,製造部門の管理者や第一線監督者を対象とする品質管理教育やIE(Industrial Engineeringの略。人・機械・物・情報を統合し,最適なワークシステムを設計確立するためのエンジニアリングアプローチ)教育を見直して,工場の製造現場が,品質管理活動やIE活動を自主的に展開していく体制づくりに努めた。その成果が実って,製造現場の第一線では,品質管理の手法やIEの手法を身につけて,自ら作業方法や製造工程を分析し,作業効率の改善を図り,品質意識もより一層向上した。
そのころ,わが国産業界で,オペレーター層の品質管理活動としてQCサークル活動が提唱されてきたが,当社では,小集団活動としてのRM活動の中でも品質管理や作業効率改善のテーマが多く取り上げられ,このことも,品質管理活動が製造現場に定着する大きな要因となった。
また,生産技術の進展や生産設備の高度化に対応して,技術革新に即した新しい品質管理マニュアルが必要となったが,このように全工場に共通する課題に対しては,各職場を横断するチームを編成し,チーム活動を通して課題に挑戦し,解決を図っていった。1968年(昭和43年)からは,このチーム活動の成果に基づいて,階層別に組み立てられた新しい教育体系がスタートした。
労使関係の改善と労働条件の向上
1960年(昭和35年)の賃金改訂交渉における1か月に及ぶ長期ストライキは,当社の労使に大きな打撃を与えたが,1962年(昭和37年)には労使対立関係はその頂点を迎えた。春闘が紛糾する中で,労働協約改訂交渉も行き詰まり,労働協約が失効し,同年3月から無協約となるという異常な事態を迎えることとなった。
この後,事態の打開に向けて労使双方が努力し,労働協約については,1963年(昭和38年)の団体交渉で一部を,さらに,1965年(昭和40年)に,残りの部分についても締結し,ようやく協約が再び整備されるに至った。
また,当社は,労働条件についても積極的に改善を進め,1964年(昭和39年)1月には,世間一般より早く定年を55歳から57歳に延ばしたほか,1966年(昭和41年)9月には,3交代勤務者の実働時間短縮(実働時間を週42時間から週41時間に短縮)を実施し,また,同年10月,厚生年金基金が発足した。さらに,翌1967年(昭和42年)には社宅制度および持家制度の改善を実施した。
このようにして,1960年代前半の荒れた労使関係は双方の努力によって改善が進められ,労使の信頼関係を回復し,1969年(昭和44年)の協約改訂交渉では,その前文に「会社は労働条件の改善につとめ,労働組合は生産性向上施策に協力する」ことを下記のとおり明記し,ここに,安定した労使関係の基礎ができた。
前 文
富士写真フイルム株式会社(以下,会社という)と合成化学産業労働組合連合富士フイルム労働組合(以下,組合という)は,経済国際化の厳しい環境の中で企業と組合員をまもるため,あらたな決意をもって次の原則を確認し労働協約を締結する。
- 会社と組合は相互に信頼し,理解を深める努力を惜しまない。
- 会社は組合員の労働条件・福祉の向上に努める。
- 組合は会社の生産性向上施策に協力する。
- 会社と組合は労使関係の平和を維持することに努める。
当社の労使関係は,時代に即応したこの労働協約を基調として,信頼と協力の新しい時代に入っていくこととなった。その意味で,1969年(昭和44年)は,労使関係にとって新たな1ページを画す年になったといえよう。