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海外への雄飛 - 海外拠点の拡充と輸出の伸長

 

1960年代を迎えて、当社は、既存のニューヨーク事務所、ブラジルの販売会社に加えて、1964年(昭和39年)西独デュッセルドルフ、1965年(昭和40年)香港、1970年(昭和45年)には、ソウル、台北、シンガポール、バンコク、ブエノスアイレスに、それぞれ事務所を開設し、海外販売拠点の整備を進めていく。この間、1963年(昭和38年)、西独ケルン市で開催された“リプログラフィーショー”に初参加したのを皮切りに、“フォトエキスポ”、“フォトキナ”などの写真関係国際ショーに積極的に参加し、“FUJI FILM”の名を高めていく。こうした努力の結果、輸出は年々増加し、1970年(昭和45年)には、全売上高の13.7%を占めるに至る。

海外市場開拓の強い要請

戦後,双眼鏡や映画用ポジフィルムから再開した当社の輸出は,その後,X-レイフィルム,一般用フィルム,カメラなどに広がり,1960年(昭和35年)には,当社の輸出先は40か国を超え,同年の輸出金額は7億6,800万円を超えるに至っていたが,輸出比率は,いまだ4.2%にすぎなかった。

1960年(昭和35年)にわが国の「貿易為替自由化計画」が決定され,日本経済が開放経済体制に移行することが表明されたことは,当社にとって,国内において市場を確保するとともに,海外市場を開拓して輸出を拡大することが極めて重要な課題となったことを意味する。こうした情勢のもとに,1960年(昭和35年)以降,当社は,海外でのマーケティング活動を積極的に展開していった。

国際写真関係ショーへの積極参加開始

[写真]初参加したPHOTO EXPOでの当社ブース 1965年(昭和40年)

初参加したPHOTO EXPOでの
当社ブース 1965年(昭和40年)

[写真]初参加したフォトキナでの当社ブース 1966年(昭和41年)

初参加したフォトキナでの当社ブース
1966年(昭和41年)

西ドイツ,ライン河の中流に位置するケルンで1963年(昭和38年)10月に開催されたリプログラフィーショー,すなわち世界事務機ショーは,当社が初めてこの種のショーに登場するひのき舞台となった。

このショーは,印刷・複写関係の国際的な展示会で,世界の有力印刷機材メーカー・複写機材メーカーが一堂に会し,その製品と技術を展示して優劣を競い合う場である。当社ブースには,当時注目を浴びていた“クイックシステム”を中心として,マイクロ写真機材,各種印刷製版用感光材料などを展示し実演した。コダック,アグファ,ゲバルト,デュポンなど世界の有力会社が覇を競う中で,日本から初めて参加した当社は,会場でも大きな話題を集め,“FUJI FILM”の名前を参会者たちに強く印象づけた。また,展示会と並行して開催された学術講演会では,当社技術者が電子写真罫書装置“EPM”と“クイックシステム”についてそれぞれ講演を行ない注目された。

続いて,1965年(昭和40年)5月には,ニューヨークで開かれたPHOTO EXPOに参加した。この写真ショーでは,“シングル-8”システムを発表し,同時に“ラピッドシステム”をはじめ,当社の写真感光材料と光学機器製品を展示したが,幸いにして,“シングル-8”は画期的な8mmシステムとして好評を博した。

次いで,1966年(昭和41年)10月に,待望のフォトキナに初参加した。このショーは,西ドイツのケルンで2年に一度開催される世界最大の写真関係国際ショーで,ここで紹介された新製品や新技術が,その後の世界の写真市場の動向を左右するともいわれている。それだけに,世界の国々から写真業界に関係するメーカー,ディーラー,ジャーナリストはもとより,一般の写真愛好者たちが集まり,ショーに参加するメーカーやディーラーも,その展示には腕によりをかけて競い合う。

世界的な総合写真メーカーとしてのデビューを目指し,これまで出展を控えていた当社は,今やそれだけの実力と“シングル-8”という柱となるべき国際商品をひっさげて,満を持してのフォトキナ初参加であった。

10月1日,開会式に出席されたリュプケ西独大統領は,日本を代表するメーカーとして当社ブースを訪れ,また同夜の西ドイツのテレビ放送のフォトキナ特集番組では,“フジカシングル-8 Z2”と“フジカスコープM3”が紹介され,Gカラーによる金閣寺の写真を背景とした当社のデモンストレーションの実況放送が行なわれて,日本の写真工業の実力をPRするのに大きな効果をあげた。

当社は,このフォトキナの場を通じて,総合写真メーカーとしての実力を強く印象づけるとともに,世界市場に積極的に進出しようという姿勢を内外に示した。そして,世界各国から参集した多数の当社代理店も,当社の積極的な態度に強い自信をもち,販売意欲を一層強めていった。

海外拠点の整備

[写真]開設当時のデュッセルドルフ事務所 1964年(昭和39年)6月

開設当時のデュッセルドルフ事務所
1964年(昭和39年)6月

[写真]ニューヨーク事務所が置かれているエンパイアステートビル

ニューヨーク事務所が置かれている
エンパイアステートビル

1960年(昭和35年)当時,当社の輸出取引国は40か国を超えていたが,当社独自の海外拠点としては,ニューヨーク事務所とブラジルの現地販売会社の二つだけであった。1960年代に入って,当社は,海外市場の開拓を積極的に進めるため,海外拠点の拡充を図った。

まず,1964年(昭和39年)6月,ヨーロッパにおける拠点としてデュッセルドルフ事務所を開設した。デュッセルドルフは西ドイツの政治・経済・文化の中心地の一つであるとともに,ヨーロッパ全体の経済の中心地の一つともなっている。

デュッセルドルフ事務所は,ヨーロッパにおける業界情報の収集に当たる一方,ヨーロッパ各国の当社代理店との接触の窓口として,当社製品の販売促進を図っていった。そして,1966年(昭和41年)7月には,“シングル-8”がヨーロッパ市場に導入されたのを契機として,現地法人として Fuji Photo Film(Europe)G.m.b.H.(富士写真フイルム欧州有限会社)を設立した。これによって,西ドイツでの輸入販売や,ヨーロッパ各地への再輸出も行なえるようになり,ヨーロッパ市場での当社製品の販売に大きな威力を発揮した。

これより先,1965年(昭和40年)10月,ニューヨークにも現地法人Fuji Photo Film U.S.A.,Inc.(富士写真フイルム米国株式会社)を設立した。同社の設立によって,“シングル-8”やカメラをはじめとする光学製品,あるいはX-レイフィルムやマイクロ写真関係製品の北米市場への導入を行なうとともに,“シルグル-8”フィルムの現像体制を整備し,それぞれの分野の代理店との密接な協力のもとに,当社製品の拡販を進めていった。

また,1965年(昭和40年)3月,香港事務所を開設し,海外拠点の強化を図った。

輸出100億円を突破 - 「輸出貢献企業」に認定される

1960年(昭和35年)以降,当社は,前述のように海外販売拠点を強化・拡充し,国際水準の製品の開発に努め,積極的な輸出拡大策を推進した結果,1960年代の10年間に,輸出高も大きく伸長した。

[写真]輸出貢献企業の認定証

輸出貢献企業の認定証

[写真]輸出額の推移 1955年度(昭和30年度)~1970年度(昭和45年度)

この間,1964年(昭和39年)6月には,「輸出貢献企業」に認定され,通商産業大臣から認定証ならびに認定マークが授与された。また,同年開催された東京オリンピックでの日本に対する海外の理解の深まりが,当社の輸出にも好影響を与えた。1968年(昭和43年)には,前年11月の英国のポンド切り下げに続いて,米国のドル防衛強化策の発表など国際通貨不安の影響による輸出環境の悪化もあり,当社も難しい対応を迫られた。

製品関係では,1965年(昭和40年),“シングル-8”を発表し,また,X-レイフィルムと製版用フィルムの対米輸出が本格化した。1960代後半に入ると,35mm判カラーフィルムの輸出を開始し,映画用カラーポジフィルムの米国への輸出もスタートした。光学製品では“シングル-8”関連製品のほか,“フジカ35EE”,“フジカ35オートM”をはじめ,“フジカハーフ”などのハーフサイズカメラが輸出された。

かくして,1970年(昭和45年)の輸出金額は137億5,300万円と,100億円の大台を突破し,全売上高に占める輸出比率も13.7%に達した。ちなみに,同年の輸出仕向け国順位は,米国,西ドイツ,香港,ブラジルの順で,北米および西欧地区で輸出全体の60%強を占めた。

輸出業務の効率化と海外広報活動

輸出量の増大に伴って海外の取引先も増え,輸出関係の業務量も飛躍的に増大したので,1969年(昭和44年)に輸出業務コンピューターオンラインシステムを導入し,業務処理の迅速化を図った。これは,当時としては進んだ事務管理システムで,事務処理の省力化と処理時間の短縮化・正確化に大きな威力を発揮した。

また,海外市場への積極的な展開によって,1967年(昭和42年)には輸出仕向け国も80か国を超え,それに伴って海外での宣伝活動も活発化し,「ライフ」「タイム」「ニューズウイーク」など,いわゆる国際誌への広告掲載を積極的に行なうとともに,フジカラーフィルムと“シングル-8”を中心とするアマチュア製品,X-レイフィルム,映画用フィルム,産業材料製品など,製品分野ごとに,海外向けのリーフレット,カタログ,データシート,ポスターなど種々の宣伝物を製作し,全世界に配布した。このほか,海外代理店に協力して,地域ごとのきめ細かいセールスプロモーション活動を積極的に推進した。また,1969年(昭和44年)には,海外代理店や有力小売店向けに,当社の諸活動を知らせる目的で,英文の「Fuji Film News」を刊行した。同誌は,その後1980年(昭和55年)6月から「Fuji Family News」と改題し,海外代理店の幅広い活動を紹介する記事を豊富に採り入れるなど,海外代理店とのコミュニケーションの場としている。

[写真]海外向けのカタログ

海外向けのカタログ

[写真]「Fuji Film News」創刊号

「Fuji Film News」創刊号


[写真]フジカラー空輸サービス

フジカラー空輸サービス

また,ユニークな海外活動として,1964年(昭和39年)8月から,当社と日本航空株式会社が提携して始めた「フジカラー空輸サービス」がある。これは,国際交流の活発化と外貨事情の好転によって海外渡航制限が緩和され,商用や観光を目的として海外に出かける日本人旅行者が増えてきたことに伴い,撮影済みのカラーフィルムの現像受付を海外で行なうシステムで,日本航空の海外支店に設置された特製の「フジカラーポスト」に投入すれば,日本航空がこれを日本に空輸し,当社が現像して留守宅に送り届けるというシステムであった。当初は,ニューヨーク,ロサンゼルス,ロンドン,パリ,ローマの5か所にポストが設置されたが,好評であったため,設置個所も増やしサービスの向上に努めた。しかし,その後,海外ラボ網の整備などによって次第にその必要性が減じたので,1975年(昭和50年)12月をもって,このサービスを終結した。

 
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