ページの先頭です


サイトの現在地を表示します
サイトの現在地表示をスキップして本文へ移動します

OA市場に向けてのシステム商品の展開

 

1980年代に入り、ビジネス分野の新製品競争は、ますます激しく、当社も開発・販売体制を強化する。マイクロ写真の分野では、オフィス市場・金融市場・図面市場に対し、それぞれ、ユーザーニーズに応えたカメラプロセサー・リーダープリンター・ロータリーカメラプロセサーを整備する。また、コンピューターと連動した自動検索システム(CARシステム)・日本語COMシステム・光COMシステムやメディカルマイクロレコーディングシステムなど、次々と新システムを開発していく。情報記録紙の分野では、感圧紙の高速塗布機を建設するとともに、複合顕色剤を用いて“感圧紙”の品質向上を図り、1983年(昭和58年)には、新たに、感熱紙を発売する。

新製品開発,生産・販売体制の強化

[写真]'83ビジネスショーにおける当社ブース

'83ビジネスショーにおける当社ブース

[写真]富士マイクログラフィックス株式会社

富士マイクログラフィックス株式会社

1980年代に入り,経営効率化の課題として,オフィス業務の生産性向上を目指して,オフィス分野の情報処理(情報の作成・複写・伝達・蓄積・検索)システムにオフィスオートメーション,すなわちOAが注目され,エレクトロニクス技術を駆使した戦略商品が多くのメーカーで相次いで開発され,ビジネス市場に登場してきた。

従来,このビジネス市場における商品は,複写機やタイプライターなど単能的な商品開発や利用方法がなされていたが,エレクトロニクス技術の発展により,複合的システムの商品化あるいは利用方法がなされてきた。マイクロ写真システムの分野においても,ハードウエア(機器)とサプライ(材料)およびソフトウエア(活用方法)を統合したシステムが開発され,これらを総称して“マイクログラフィックス”と呼ばれるようになった。

当社は,ビジネス市場分野の将来性と各社の激しい新製品開発競争に対応し,商品企画体制とマーケティング活動を強化するため,1982年(昭和57年)11月,情報システム開発部を新設するとともに,従来のマイクロシステム部と紙業部とを統合して,情報システム営業部を新設した。

マイクログラフィックスの分野では,1981年(昭和56年),宮台技術開発センターの設立を機に,研究体制を一段と充実した。また,生産体制を強化促進するため,1981年(昭和56年)8月,マイクロ写真機器の主力生産部門である東京マイクロ写真株式会社を従来の東京中野から神奈川県綾瀬市に移転し,社名も富士マイクログラフィックス株式会社に変更した。新工場は,急速に増加しつつある需要に対応すべく,生産設備の増強やエレクトロニクス技術の導入,生産管理の強化を図り,マイクロ写真システム機器の生産基盤を確立した。

一方,営業活動の面では,特約店武蔵株式会社を中心として,OA機器やCOMシステムの販売会社を加えた販売ネットワークを整備するとともに,潜在ユーザーを対象とした「レコードマネジメント研究会」「自動検索システム研究会」「COMシステム研究会」「図面技術資料研究会」などの総合情報管理研究会を定期的に開催し,あるいは,当社のTECの場を活用して,ユーザーの開発とユーザーニーズの把握に積極的に取り組んだ。

また,アフターサービス体制の面でも,強化・充実を図っていった。

すでに,マイクロ写真機器の発売以来,アフターサービスは,当社と特約店が中心となって実施していたが,1976年(昭和51年)“マイクル1200”の発売に伴い,販売店によるアフターサービス体制を確立した。その後,1979年(昭和54年)“SR1000”の発売を機に,ユーザーとの保守契約による定期点検システムの導入,1982年(昭和57年)“FMRP30AU”の発売に伴い,カウンター(使用枚数)による点検制度を新たに導入した。また,COMシステムのアフターサービスは,全国にサービス網をもっているサービス専門会社に委託するなど,サービス体制を整えていった。

ニューオフィスマイクロ写真システム機器の開発

OA化が進む中で,オフィスで発生する大量の文書資料情報の管理が大きな課題になってきた。

当社は,1976年(昭和51年)に実用的なオフィスマイクロ写真システム用“マイクル1200”カメラプロセサーを発売して以来,一貫して「OAの第一歩は,マイクロ写真システムによるファイリングの整備から」をメインテーマに,ここ数年のOA化ムードに乗って着実に市場開発を進めてきた。“マイクル1200”は,国内はもとより,米国・欧州を中心に広く海外にも採用されてきた。特に,国内市場では情報公開の制度化に伴う自治体での行政文書のマイクロ写真化の検討や企業での帳票類のマイクロ写真化が促進されるなど,需要拡大の新しい局面が開かれてきた。

[写真]マイクル2200FとミニコピーリーダープリンターFMRP30AU

マイクル2200Fと
ミニコピーリーダープリンターFMRP30AU

当社は,オフィスマイクロ写真システムを採用しているユーザーのニーズに応えて,1982年(昭和57年)11月,“マイクル1200”カメラプロセサーをさらに改良したより簡単な操作で高品質のマイクロフィルム化が可能なカメラプロセサー“マイクル2200F”を,1982年(昭和57年)12月には,見やすく,また,必要な情報をスピーディにドライ方式のコピーペーパーとして取り出せるリーダープリンター“FMRP30AU”をそれぞれ開発し,OAの基礎を創る革新的な「ニューオフィスマイクロ写真システム」として発売した。

“マイクル2200F”は,原稿をドキュメントフィーダー(原稿自動送り装置)に差し込むだけで,後は毎分20コマのハイスピードで自動露光によって安定した画像のマイクロフィルムが自動的に生成される。専用カートリッジによる給液方式を採用し,使いやすさと実用性に徹したマイクロファイリングシステムを実現した。

“FMRP30AU”は,酸化亜鉛系感光材料を用いた電子写真方式のシステムで,ネガ・ポジ兼用のトナーを用いた乾式現像という全く新しい方式を採り,最適な画質が得られる自動露光調整機構(AEC)を内蔵しており,コピーサイズはA3判からB5判まで拡大・縮小ができ,ユーザーメンテナンスの手間のかからないシンプルで経済的なリーダープリンターである。

“FMRP30AU”の開発によって,1983年(昭和58年)7月からは,海外にも本格的にリーダープリンターの輸出を開始した。

バンキングOAシステムの整備

[写真]FIRS3600

FIRS3600

[写真]ミニコピーカメラプロセサーSR300

ミニコピーカメラプロセサー
SR300

1979年(昭和54年)にミニコピーカメラプロセサー“SR1000”を開発して金融市場への戦略を展開した当社は,引き続き1981年(昭和56年)5月には,支店での分散処理システムとして,あるいは中小規模金融機関向けに,小型で低価格のロータリーカメラプロセサー“SR300”を発売した。“SR300”は,手形・小切手の撮影から現像までを簡単な操作で自動処理する機能・特長をもっており,“SR1000”の姉妹機として,バンキングOAシステムのラインアップを図った。

また,1982年(昭和57年)5月には,印鑑照合用の超高速検索システム“FIRS3600”を開発した。“FIRS3600”は,当社独自の超マイクロフィルムによる画像処理技術とマイクロプロセサーを応用し,顧客の口座番号を入力するだけでスクリーンに原寸大の印鑑票が写し出される。印鑑票をスクリーンに表示するのに必要な時間が平均1秒と短いほか,1枚のフロッピーディスクで最大5万件の印鑑票を検索できることが特長である。

“FIRS3600”は,三井信託銀行に全店規模で導入され,印鑑照合の高速処理による自動化を図り,業務の効率化に貢献した。

図面用システム機器の充実

[写真]ミニコピーリーダープリンターE215

ミニコピーリーダープリンター
E215

[写真]ミニコピーカメラプロセサーFCAP3000R

ミニコピーカメラプロセサー
CAP3000R

1970年代に入り,各企業における図面・情報の収集や作成・加工・検索・保管など一連の情報管理にアパーチュアカードを活用したマイクロ写真システムが定着していった。これは,原図の汚損・破損の防止,保管スペースの節約,図面資料の効率的な活用,出図スピードが速いなどの特長があるためである。

当社は,こうしたアパーチュアカードの利用拡大に応えるため,図面分野のシステム機器の開発を進め,アウトプットマシンとして,従来のクイックシステムのリーダープリンターに代わるコンパクトで安価なリーダープリンターとして,1979年(昭和54年)8月,“ミニコピーリーダープリンターE215”を発売し,引き続き,インプットマシンとして,1980年(昭和55年)9月には,“ミニコピーカメラプロセサーFCAP3000/3000R”シリーズを発売した。

“E215”は,湿式電子写真方式のリーダープリンターで,プリント速度をあげるとともに,標準レンズのほか3種類のレンズを目的に応じて使い分けができ,図面の拡大・縮小はもとより,資料・文献などのプリントもできるなど,用途を一段と幅広いものにした。

“FCAP3000”は,カメラカード500枚入りの専用カセットを装てんすることにより,最大A0判の図面を撮影,自動的に現像処理を行なって高品質のアパーチュアカードを作成することができ,TTL測光方式による適正な露光や5段階の自動縮率がセットできるなど,使いやすい機能を備えている。また,カメラヘッドの交換を行なうことにより,さらに大量の図面の撮影に威力を発揮できるロールフィルムタイプの高速連続撮影も可能な“FCAP3000R”を加えてシリーズ化を図った。

CARシステムの開発

[写真]日本生命保険マイクロオンラインシステムに採用された全自動高速検索装置

日本生命保険マイクロオンラインシステムに
採用された全自動高速検索装置

当社では,日本生命保険相互会社とのタイアップにより,マイクロフィルムによるオンラインシステムの開発を行ない,わが国最大の自動検索システムとして注目を浴びた。

日本生命では,顧客から受け取った保険契約申込書を基本にして処理されるドキュメンテーション量が膨大な量になっていたが,その対応策として,1976年(昭和51年),保険契約者へのサービス向上とオフィスの生産性向上を目的とした「日生マイクロオンラインシステム」の検討が始まった。全体のシステムの開発は,コンピューターやファクシミリのメーカーも参加したプロジェクトチームによって行なわれ,1980年(昭和55年)1月に完成し,スタートした。

このシステムは,3種類のサブシステムから構成されている。当社は,日本生命のニーズに応えて,1977年(昭和52年)から1980年(昭和55年)にかけて,順次システムを構成していった。まず,コンピューター制御による撮影用のマイクロ写真カメラを開発し,これによって膨大な数の保険申込書を撮影し,保管スペースを縮小した。

さらに,保険申込書に対する照会業務の合理化と回答の迅速化を図るために,コンピューター制御の自動検索リーダープリンターを開発した。また,保険証券発行と保険申込書処理の大幅な合理化のため,これらを2本のマイクロフィルムに同時撮影するオンラインマイクロ写真カメラと,保険申込書のマイクロフィルムから別途要処理分を自動検索してプリンターに出力する全自動高速検索装置4セットを開発して,これに応えた。

この「日生マイクロオンラインシステム」は,情報処理量・処理レベル・受注金額のいずれをみても,過去に例をみないマイクロ写真システムの大きなプロジェクトで,世界最高のCARシステム(コンピューターと連動した自動検索システム)として,高く評価された。

トータルCOMシステムのラインアップ

[写真]FUJI FILM日本語COM SYSTEM FMIP6000N

FUJI FILM日本語COM SYSTEM FMIP6000N

当社は,1972年(昭和47年)から1979年(昭和54年)にかけて“COM4000”システム,“FUJICOM SYSTEM FUJIFILM5000”など,きめ細かな仕様と豊富な機能をもつANK(Alpha Numeric,アルファベット・数字にカナ文字を付加したタイプ)COMシステムを普及させてきたが,コンピューターの漢字処理化が普及しつつある状況に対応して,高密度・高画質の日本語出力を実現した“FUJI FILM日本語COM SYSTEM FMIP6000N”プリンターを開発し,1983年(昭和58年)10月に発売した。

日本語COMシステムは,はん用性のあるソフトウエア(KOMEX)によって複雑な処理を可能とし,膨大な文字セットに適合するソフトウエアとしたほか,いずれのメーカーのホストコンピューターにも整合し,毎分1万行以上の高速出力を実現した。また,記録材料として,明室装てん用の高解像力“フジコムフィルムNR”を同時に発売した。

この結果,このシステムを導入することで,情報の有効活用やオフィススペースの拡大,コストダウンなどのユーザーメリットを図ることができた。

この間,COMシステム用リーダープリンターとして,1983年(昭和58年)10月,“FMRP40AF”を発売した。

“FMRP40AF”は,“FMRP30AU”リーダープリンターの機能を基本としたワイドで見やすいB4判のクリアーブルースクリーンをもつCOMフィッシュ用リーダープリンターである。

メディカルマイクロレコーディングシステムの開発

1960年代後半からスペースセービングを目的とし,一部の病院で,院内に保管されているオリジナルX線写真や診断レポート(カルテ)を撮影し,マイクロ写真化する可能性が検討されはじめた。ミニコピーカメラをはじめ,ミニコピーオートプロセサーやミニコピーリーダーなどが病院内に逐次導入された。その後,1970年代に入ると,オリジナルX線写真やカルテなどの診療記録のマイクロ写真化の動きは,一層活発になってきた。

当社は,この動きに対応し,1975年(昭和50年)3月に,フィッシュカメラプロセサーS105Bを改良した“Sl05B-6”を発売した。

“Sl05B-6”は,フィッシュフィルムにX線写真を6コマ撮影記録し,1患者1フィッシュのシステムを完成させた。

病院でのX線写真のマイクロフィルム化の動きに伴って,簡単に操作できて病院内のどこにでも設置できる明室タイプのシステムの開発の要望が高まってきた。

当社は,こうしたニーズに応え,1983年(昭和58年)8月,“富士メディカルマイクロレコーディングシステム”(略称:Fuji-MR)を発売した。このシステムは,シャーカステン(X線写真を観察するライトボックス)上で見るオリジナルX線写真の画質に匹敵する優れた画像情報の記録と再現が可能なシステムである。基本システムとしては,X線写真など医療画像情報をマイクロフィッシュフィルムに縮小記録する撮影現像装置“カメラプロセサーFMCP4800”,マイクロフィッシュフィルムに記録された画像を忠実に拡大再現するマイクロイメージディスプレイ装置“ディスプレイFMR1210”,さらに新しい写真乳剤技術・現像技術の開発による“富士マイクロフィルムリバーサル タイプMR”および専用処理剤で構成される。

[写真]浜松医科大学で使用されているメディカルマイクロレコーディングシステム

浜松医科大学で使用されている
メディカルマイクロレコーディングシステム

“タイプMR”は,専用パッケージングにより“カメラプロセサーFMCP4800”に明室装てんされる高感度・高解像力の直接反転タイプのフィルムで,高画質の画像を長く記録することを実現したものである。

1983年(昭和58年)4月に発売して以来,大病院からの引き合いが増加し,第1号機は,浜松医科大学医学部附属病院中央放射線部に設置された。

富士メディカルレコーディングシステムは,病院のみならず,マイクロ写真ラボ分野にも導入が相次ぎ,新しい需要の拡大につながっていった。

マイクロ写真ラボの生産性向上機器の開発

マイクロ写真ラボの生産機器であるマイクロ写真カメラやオートプロセサー,そしてエンラージャーなどを自動化し,ラボのより一層の生産性向上に貢献するため,1983年(昭和58年)7月,自動引伸機“FMES400L”を,同年8月には,マイクロ写真カメラ“FMAC500L”を,それぞれ発売した。

“FMES400L”は,あらゆるマイクロ写真フォーマットから最大A0判までの引伸が可能で,ピント合わせは,全倍率に近似自動焦点方式を採用。また,プロジェクターヘッドの昇降や安全フィルターの開閉は,手元で簡単にできる機能を備えている。

“FMAC500L”は,35mmサイズのロールフィルム専用の平床式カメラで,マイコン制御による自動露光機構を備え,簡単な操作で高品質のマイクロ写真撮影ができる特長をもっており,図面および文書マイクロ写真の品質向上と生産性向上をねらって開発したものである。

また,写真感光材料面では,1981年(昭和56年)11月,航空写真や図面などの複製に適した薄手WP紙“フジグラフプロジェクションペーパーWP”を発売した。また,フジグラフ感光材料の現像処理機器として,1982年(昭和57年)6月,フジグラフラピッドプロセサー“FRP42II”を,翌1983年(昭和58年)3月には,フジグラフラピッドプロセサー“FRP32”を,それぞれ発売した。

“FRP42II”は,フジグラフフィルムおよびフジグラフプロジェクションペーパーWPのいずれもA0判や最大長尺6mまで迅速処理できる大型自動現像機であるのに対し,“FRP32”は,最大A1判までのフジグラフフィルムおよびフジグラフプロジェクションペーパーWPを処理できる経済的な中型プロセサーで,これらの機器システムによってマイクロ写真ラボの生産性は大きく向上した。

OA化に対応した“感圧紙”

1980年代に入って,エンドユーザーにおけるOA化が進む中で,当社は,“感圧紙”の増産と生産効率の向上を図るため,1981年(昭和56年)4月,富士宮工場に画期的な第4号高速塗布機を建設した。

この最新鋭の4号機は,それまで蓄積した技術をフルに生かして当社独自に設計したもので,塗布スピードが従来の3号機の約2倍になるなど,各所に新技術を盛り込んだものであり,試運転期間も短く,5月には直ちに稼動を開始した。

[写真]感圧紙4号塗布機(富士宮工場)

感圧紙4号塗布機(富士宮工場)

[写真]感圧紙製造工場(富士宮工場)

感圧紙製造工場(富士宮工場)

[写真]感圧紙拡販活動 フレッシュアップ F.KANキャンペーン

感圧紙拡販活動 フレッシュアップ F.KANキャンペーン

この4号機の稼動によって,増大する需要に安定供給をもって応える一方,OA化の進展に伴って強まってきた高品質化への要請に対して,当社は,新タイプの開発によって応えてきた。すなわち,1982年(昭和57年),国内他社に先駆けて,マイクロカプセルをゼラチンからポリマーに切り換え,翌1983年(昭和58年)初めには,従来にもまして一層鮮やかに発色する複合顕色剤を採用した。この新タイプ“感圧紙”の品質設計においては,OA時代のオフィスにおける使用適性を重視するとともに,印刷作業適性の向上も図っている。そして,「先進のオフィスへ,ノーカーボン新世代」のキャッチフレーズのもとに,OA時代を迎えた市場に送り出された。

販売面においても,第4号高速塗布機の稼動を契機に,グリーンサークル活動およびビジネスインフォメーションサークル活動の活性化を図るとともに,これらサークルと「フジカラー友の会」とのドッキングを図るなど,当社の総合力を利用した拡販活動を推進した。また,着実な成果をあげてきた「F・KANキャンペーン」をより一層強化・発展させるべく「フレッシュアップF・KANキャンペーン」を展開し,エンドユーザーからの“感圧紙”指名の増大・シェアアップを図った。

1980年代に入ってからのOA化の進展は,オフィスコンピューターの急激な普及と分散処理化の促進など,ノーカーボン紙の需要を拡大させる要因になっている反面,事務合理化による帳票使用量の節減,普通紙を使用するレーザービームプリンターの普及,さらにはぺーパーレス化への機運などは,ノーカーボン紙需要の抑制要因にもなっている。このような市場環境のもとで,当社の“感圧紙”の販売は,ユーザー指名の増加やシェアアップ対策によって高い成長を維持しているが,特に,1984年(昭和59年)には,印刷会社を対象として「SSS作戦」のキャンペーンを展開した。これは,OA化の進展による需要の変化に対応するには,印刷会社自身が「シェイプアップ」「サバイバル」「シェアアップ」を図ることが必要であると提唱し,その思想・ノウハウを提供したものである。この「SSS作戦」は,当社への信頼感を高め,「印刷会社-紙卸商-当社」という流通の一体感をさらに強化することによって“感圧紙”の需要を一層拡大するものと期待されている。

感熱紙分野への進出

急速に進展する情報化社会の中で,文字・数値情報だけでなく,図形情報などを迅速・手軽に伝達できるファクシミリは,技術革新と電話回線の開放によって急速に普及し,それに伴い,新しい情報記録紙“感熱紙”の需要が増加してきた。

感熱紙は,熱に感じて発色する紙で,べースペーパーの上に塗布されている発色剤と顕色剤が,熱を加えることによって溶けて化学反応を起こし,瞬時に発色する紙で,ファクシミリの受信用紙やコンピューター・計測器などのプリンター用紙として使われ,また,電車の切符やスーパーなどの値札,そして医療機器など,さまざまの分野での用途が広がってきた。さらに今後,ファクシミリ放送・文字多重放送などのニューメディア分野でも感熱記録方式の利用が大きくクローズアップされている。

[写真]オフィスで使われている感熱紙

オフィスで使われている感熱紙

[写真]富士フイルム感熱紙

富士フイルム感熱紙

ノーカーボン紙のトップメーカーである当社は,写真感光材料や“感圧紙”などの製造で培った技術を駆使して,感熱紙についても研究を進め,新しいタイプの発色剤・顕色剤・増感剤の開発やその分散方法や塗布技術の開発を重ねてきた。その結果,高品質な感熱紙の商品化に成功し,1982年(昭和57年)9月,電電公社(現NTT)ミニファックス用記録紙としての認定を受け,発売を開始した。その後,1983年(昭和58年)5月には,品質の優秀性が高く評価され,松下電送や富士通などのメーカーにも採用され,販売を開始した。

当社の感熱紙は,

  1. 発色剤などの主要素材は,自社開発による一貫生産。
  2. 従来より低い電圧でも印字できる。
  3. 感熱材料を微粒子化し,ファクシミリやプリンターなど感熱紙ヘッドの摩耗の減少を図っている

など,従来の競合他社製品にはみられない優れた特長をもっており,採用先が広がっていった。

一方,1983年(昭和58年)8月,富士宮工場の感圧紙の製造設備を改造して,感熱紙の製造ラインを整備し,本格製造を開始した。

その後,富士ゼロックス社にも販売を開始するほか,大手感熱ヘッドメーカーの推奨を受けるなど,採用先は大幅に拡大し,以後,積極的な事業展開を図っていった。

 
ここからフッターです

ページの終わりです
ページの先頭へ戻る