カメラでも新機種を - 全自動カメラの発売
良い写真を誰でも簡単に撮影できるようにと、当社は、35mmレンズシャッターカメラの自動化を追求し、1980年(昭和55年)に“フジカオート5”を、翌1981年(昭和56年)に“フジカオート7”を発売、次いで1983年(昭和58年)には、ドロップインローディング(DIL)機構付きの“フジカオートエース”、“フジカオートメイト”を発売する。また、一眼レフカメラのバヨネットマウント化を図り、“フジカAX”シリーズを発売する。一方、ポケットカメラでは、“ハローキティカメラ”や“ポケットフジカミッキーマウス”などのキャラクター商品を発売する。さらに、1983年(昭和58年)には、ディスクカメラおよびディスクフィルムを海外市場向けに発売する。
全自動カメラ“フジカオート7”の発売
当社は,良い写真をだれでも簡単に撮影できるようにとカメラの開発を進めてきた。そして,ストロボ内蔵や自動焦点カメラの開発に続いて,35mmレンズシャッターカメラをさらに使いやすくするために,シャッターを押す以外のすべての操作を自動化すべく,開発を進めた。
そして,まず,
- フィルムの簡易自動装てん
- フィルムの自動巻き上げ
- フィルムの自動巻き戻し
- 電子シャッター付きの自動露光
- フィルム感度のオートセット
フジカオート5デート
フジカオート7デート
の5つのオート機構を備えた“フジカオート5”と“フジカオート5デート”を開発し,1980年(昭和55年)11月から国内市場に出荷し,翌月には海外にも“フジカオート5”を発売した。
両機は,このほかにも,フィルムの確認窓を装備し,ストロボやセルフタイマーを内蔵し,“オート5デート”は,さらに日付写し込み機構を備え,ファミリーカメラとして幅広いニーズに対応した。
さらに,翌1981年(昭和56年)10月には,全自動カメラ“フジカオート7デート”を発売した。このカメラは,“フジカオート5デート”の機構をべースに,フィルムの自動巻き戻し機構を撮影終了と同時に自動的に巻き戻すオートリターン式に改良するとともに,(1)オートフォーカス(2)オートフラッシュマチック(ストロボ使用時にオートフォーカス信号によって自動的に適正露光が得られる)の2つの機構を付加し,合計7つのオート機構をもったものである。また,翌11月には,デート機構を除いた“フジカオート7”も発売した。翌1982年(昭和57年)2月には“フジカオート7”を海外向けにも発売した。
これによって,シャッターを押す以外の操作はすべて自動化され,いつでも,どこでも,だれもが美しいカラー写真を簡単に楽しめるようにとの当社の長年の願いが実現し,“フジカオート7”と“フジカオート7デート”は,市場で好評をもって迎えられた。
DIL機構の開発
フジカDL100へのフィルム装てん
フジカDL20
“フジカオート7”によって,カメラの全自動化が実現したが,フィルムを差し込む操作だけはまだ人手によらなければならなかった。そこで,当社は,フィルム装てんをより一層簡単にすることを目的として,これまでの発想とは全く異なる自動巻き上げ機能を持つドロップインローディング(DIL)機構を開発した。
このドロップインローディング機構は,従来のフィルム装てん方式とは全く異なるワンタッチの装てんシステムで,カメラ底部を半分開いて,そこにフィルムをプラスチックケースから取り出したままの状態でポンと落とし込み,そのまま裏ぶたを閉じるだけでフィルムが自動的に巻き上げられて,1コマ目がセットされる機構のシステムである。
DIL機構を内蔵したドロップインローディングカメラは,1982年(昭和57年)完成し,同年10月開催されたフォトキナ’82に出品し,大きな話題を呼んだ。
このドロップインローディングカメラ“フジカDL-100”と“フジカDL-20”は,翌1983年(昭和58年)1月から海外市場に出荷を開始した。国内市場には,1983年(昭和58年)3月,まず“フジカDL-20”を,次いで翌4月に“フジカDL-100デート”を,6月に“フジカDL-100”をそれぞれ発売し,“フジカDL-100”および“フジカDL-100デート”には“フジカオートエース”,“フジカDL-20”には“フジカオートメート”と,それぞれ愛称をつけた。
“フジカDL-100デート”は,赤外線使用のオートフォーカス機構や日付け写し込み機構などを内蔵した全自動高級機として,またフジカDL-20”は,日付け写し込み機構を取り除いたほか,焦点調節機構など一部機構を変えた普及機として,いずれも,フィルム操作は,装てん・巻き上げ・巻き戻しまで全面的に自動化され,これまでフィルム操作を苦手としていたユーザーにも安心して写真撮影が楽しめるカメラとして,幅広い層に好評をもって迎えられた。
一眼レフ“AXシリーズ”の完成
当社が1970年(昭和45年)から発売したフジカSTシリーズは,内外の35mm一眼レフカメラ市場で好評を博するとともに,“フジカ”のブランドイメージを高めるのに大きな貢献をした。
しかし,35mm一眼レフカメラは,エレクトロニクス技術の応用によってますます高性能化する一方,レンズ交換の機動性を高めるために,ねじ込み式のスクリューマウントからワンタッチで着脱できるバヨネットマウントヘの移行が進んでいた。被写体に合わせてレンズを交換し,しかも機動性を特長とする一眼レフにとっては,これは当然の成り行きであった。
しかし,バヨネット化するためには,交換レンズもすべて切り換えなければならず,単にボディーだけをバヨネット化すればよいというわけにはいかなかった。当社では,慎重な検討を重ねた結果,1979年(昭和54年)8月,まず,輸出専用機“STX-1”をバヨネットマウントとして発売した。続いて,同1979年(昭和54年)9月に“AX-1”と“AX-5”,同年12月に“AX-3”のAXシリーズの3機種を輸出用に発売,翌1980年(昭和55年)3月から“AX-1”などの国内販売も開始し,スクリューマウント式カメラの生産は中止した。
フジカAX-5
“AX-1”は,絞り優先のAE機で,初心者にも使いこなせる普及機,“AX-3”は一眼レフ市場の主流となっていたマニュアル測光も可能な絞り優先のAE標準機,“AX-5”は,絞り優先とシャッター優先,絞り・シャッターいずれもカメラまかせのプログラムAE,それに,ストロボAE,マニュアル撮影も可能の5モードAEの最高級機とした。これらのカメラは,いずれも,専用アダプターを使用すれば,従来のスクリューマウントの交換レンズも使用可能とした。
AXシリーズの発売に合わせ,交換レンズもF2.8 24mmからF4.5 400mmまで多種類を整備し,ズームレンズ・魚眼レンズ・マクロレンズもそろえて“EBCXフジノン”レンズシリーズを発売し,内外の一眼レフ市場での地盤を固めていった。
特に,品質・価格において激しい競争を続けている海外のカメラ市場にあって一眼レフ市場に遅れて参入した当社が,短時日の間にAXシリーズのバヨネット方式による普及機から高級機までを整備充実したことは,当社の開発力を示すものとして,海外市場でも大きな評価を得ることができた。
キャラクターカメラ,芽生えカメラの開発
ハローキティカメラ フラッシュAW
ポケットフジカ ミッキーマウス
ポケットフジカオートポップ
フジカPicPAL
当社は,110サイズポケットカメラに,縦型カメラを開発して,手ぶれによる撮影ミスを激減させ,また,各種の機能を付加した機種を整備して写真需要の拡大に努めてきた。そして,さらに低年齢層の需要拡大を図って,キャラクター商品の開発を進め,1981年(昭和56年)11月,株式会社サンリオと提携して“ハローキティカメラ フラッシュAW”を発売した。
同機は,ストロボとオートワインダー機構を内蔵し,レンズカバーとワインダースイッチ兼用の“ハローキティ”をレンズ前面にセットした固定焦点式カメラで,ボディーを赤と白,白と青のツートンカラーの2種とし,サンリオの販売ルートを通じても普及を図った。
次いで1983年(昭和58年)4月には,東京ディズニーランドのオープンに合わせて“ポケットフジカ ミッキーマウス”を発売した。
同機は,レンズカバーにディズニーキャラクターの人気者ミッキーマウスをデザインし,これをスライドさせてシャッターをきるストロボ内蔵の固定焦点式カメラとした。
これらキャラクター商品は,人気商品となって,低学年子女のファッションや贈り物用として,ポケットカメラの新しい市場をつくり出していった。
なお,この間,1982年(昭和57年)5月には,“ポケットフジカオートポップ”を発売した。これは,ストロボが必要な暗さになると自動的に内蔵ストロボがとび出してストロボ撮影を指示するカメラで,オートワインダー機構を備え,ボディーカラーも赤・青・黒の3色をそろえた。
また,同年12月には,35mmサイズのコンパクトカメラでも,カメラを初めて手にする小中学生用として,ストロボを内蔵した固定焦点式の普及機“フジカPicPAL”を発売した。
これらの各機種は,一人でも多くの子供たちが気軽に写真に親しめるようにと念願して開発したもので,「芽生えカメラ」としての役割を果たしている。
ディスクカメラ,ディスクフィルムの開発
1982年(昭和57年)2月,コダック社は,従来と全く異なった方式の“ディスク写真システム”を発表した。
この“ディスク写真システム”の特長は,フィルムの形状を今までのロール状から,直径約65mmの1枚の円盤(ディスク)に変えたことにある。このディスクフィルムの円周に沿って,1コマの画面サイズが8mm×10mmという小さい15のフレームを並べ,これを縦横75mm,厚さ7mm,片面に露光窓を有する薄いプラスチックカートリッジに入れ,撮影に際して,カートリッジの中でディスクフィルムが回転して露光されるシステムである。
当社は,このシステムは欧米市場では一部需要層に拡大していくものと判断し,海外市場での当社の事業のチャンスを失わないようにするため,海外市場向けに,ディスクカメラとディスクフィルムを早急に開発することに決定し,直ちに,必要なカメラとフィルムおよび現像機器の開発を進めた。
カメラの開発に当たっては,ユーザーの使用ミスを減少するため,デザインは通常の35mmカメラと同様に,レンズ部のボディーの中央部に配置し,ファインダーはその上部に,また,ストロボは左手側上部として,撮影時にレンズやストロボ前面を指でふさがないようなレイアウトとした。また,シャッターボタンは,ボディーの右手側上部に配置して手ぶれの減少を図った。
FUJI DISC CAMERA 50,70
FUJICOLOR HR DISC FILM
カメラと機器の生産を担当している
富士写真光機株式会社
そして,1983年(昭和58年)7月,“FUJI DISC CAMERA 50”と同“70”の2機種を開発し,海外市場で発売した。両機は,いずれも,F2.8 12.5mmの固定焦点レンズ式で,ビームセンサーによるストロボ自動発光機能を有した。“70”は,さらに,連続ならびに3コマの連写機能およびセルフタイマー機構も付加して機能を充実した。
一方,ディスクフィルムの開発には二つの課題があった。
その一つは,これまでの写真乳剤とは比較にならない超微粒子の写真乳剤を開発することである。当社は,これまでも写真フィルムの高画質化を目指して研究を進めており,ちょうど“フジカラーHRフィルム”を用意していたので,この技術を基盤としてディスクフィルムの写真乳剤に発展させることができた。
他の一つは,ディスクシステムのフォーマットに加工する技術と,その生産体制を確立することである。このために専門の推進チームを編成し,加工技術の開発,包装材料用素材の探索や包装材料仕様の決定,設備仕様の決定と設備導入,加工品質の確認,さらに生産開始の体制づくりなどを効率的に実施した。このディスクフィルムの加工の中で,従来見られなかった新技術は,カートリッジのレーベルのバーコード表示にフィルム上のバーコード表示を一致させることである。そのためには,加工工程中で,まず,カートリッジのバーコードを読み取り,それと同じバーコード露光をディスクフィルム上にしなければならない。そのための新規技術開発に成功したことと,薄物のフィルムおよびコアの部材を一体にまとめあげる技術の開発に成功したことの2点をあげることができる,
そして,スタート以来半年で,これらの新技術の開発に成功し,1982年(昭和57年)10月開催のフォトキナ’82に“FUJICOLOR HR DISC FILM”のサンプルを展示し,当社の技術力の高さを全世界に示すことができた。そして,開発を始めてから1年後には生産を開始し,1983年(昭和58年)3月から海外市場に向けて出荷を開始した。開発期間わずか1年というスピードで計画が達成されたことは,当社のこれまでの長年にわたる加工技術の蓄積によるものであった。
一方,ラボ関係の機器については,1982年(昭和57年)6月に海外代理店のラボ向けにプリンティングキットとフィルム現像処理機を発売し,次いで,翌1983年(昭和58年)4月には大量処理用プロセサーを発売し,処理体制を整備した。
光学ガラス事業の終結
1982年(昭和57年)7月,当社は光学ガラス事業を終結した。顧みれば,光学ガラス工場が1940年(昭和15年),設立間もない小田原工場で稼動を開始して以来,今日まで,単に自社用のみならず,他のカメラメーカー・レンズメーカーなどに光学ガラス製品を広く供給し,当社の歴史の上で数々の業績をあげてきた。
1952年(昭和27年)にふっ素系の新種ガラスを開発して以来,ランタンなど希元素を使用した新種ガラスの量産化に成功した。これらによって,F1.2クラスの明るいレンズも量産が可能となり,カメラ産業の発展に大きく貢献したことは,わが国光学技術史上に輝く成果であった。
その後,プレス成形品としては,8mmシネカメラやポケットカメラ,あるいは光学顕微鏡などの分野で,寸法精度の高い10mm以下の小口径レンズの量産化が要望された。当社は,業界に先駆けて,小口径品用の高精度量産技術「棒状プレス成形システム」を開発し,そのニーズに応えた。
また,一方では,大型テレビカメラ用レンズや望遠レンズなどの分野で,当社独自の成形技術で100mmから200mmの大口径レンズ用プレス成形品を開発した。
その後,わが国のカメラの輸出のウェイトが増加するに伴って,光学ガラスはさらに高屈折率硝種の開発が要望された。当社は,これに対して,重ランタンフリント系(LaSF)ガラスの品種を整備するとともに,ほたる石に近い超低分散ガラス(波長による屈折率の差が非常に小さいガラス)のふっ素りん酸ガラスその他の新種ガラスを開発した。また既存の硝種についても,化学的耐久性の改良や着色の減少など,品質の改良を図って市場に提供した。この間,カメラ市場では,競争の激化とともに,光学ガラスのコストダウン要請も強く,とりわけ1973年(昭和48年)にぼっ発した第1次オイルショック以降,この要求はますます強くなってきた。
当社は,組成の改良による高価な希元素類の使用減少や連続溶融,あるいは溶融と同時に成形するダイレクトプレスなどによるコストダウン対策を推進した。しかし,これらの努力にもかかわらず事業採算は悪化し,かつ,その改善の見込みも立ちがたい状況になったので,種々検討の結果,1981年(昭和56年)10月,光学ガラス事業の終結を決断するに至った。事業の終結に当たっては,ユーザーに対して当社に代わる供給先をあっ旋するとともに,移管終了までの必要量を供給し,同時に代替供給先には,当社のノウハウを提供した。
そして,1982年(昭和57年)7月,当社は42年にわたる光学ガラス事業から撤退した。