1980年代を迎えて
1980年(昭和55年)1月、1980年代の幕開けを迎えて、当社は、新しいCIマークを制定し、企業イメージの一新を図って新たな出発をする。そして、“不確実性の時代”あるいは“乱気流の時代”といわれる1980年代に向かい、同年5月30日、平田社長が会長に、大西専務が社長に就任する。大西新社長は“世界の富士フイルム”、“技術の富士フイルム”を目指すことこそ当社発展の道であることを強く訴え、同年10月、全社運動“Vision-50”のキックオフ宣言を行なう。創立50周年を迎える1984年度(昭和59年度)のあるべき姿を描き、これを実現するための具体的目標を掲げた“Vision-50”は、全社的な運動として大きな高まりをみせ、目標実現に向かって力強く進んでいく。
CIマークの制定
新CIマーク
新社員証
東京本社ビルに
ひるがえる新社旗
1980年(昭和55年)1月,当社は,新しいCIマークを制定し,社内はもとより,広く世界に向かって企業イメージの一新を図った。
CI(Corporate Identityの略)とは,企業が自らの意志でそのあり方を確立し,それを,計画的・統一的に社会の人びとに伝えるということであり,よりよい企業イメージの確立に向けて,統一的に使用するCIマークを制定することとした。
当社のマークは,従来,赤いだ円の中に“富士フイルム”あるいは“FUJI FILM”の文字を白抜きしたものが主に用いられてきた。しかし,日本国内はともかく,海外市場では当社の独自性を示すマークとしての認知は得にくかった。また,FUJI FILMのマークは,フィルムのイメージが強く,そのため,磁気記録材料・感圧紙・カメラ・機器製品など,フィルム以外の製品のマークとしては,そぐわない点も多かった。
一方,社章・社旗,あるいは名刺・封筒などには,創立以来の社章である「富士山に Fuji の文字をデザインした丸いマーク」を使用してきた。また,富士フイルムグループ各社の社章・ブランドマークも,個々に設定されており,まちまちであった。
このように社内外で使われるマークが幾種類もあることからくる不統一をなくし,当社の事業活動をさらにワールドワイドに展開していくため,企業イメージあるいは企業のパーソナリティーを統一的に,かつ,明確に訴求する新しいCIマークを制定する必要があった。
CIマークのデザイン制作に当たっては,次の3点を基本とした。
- 国際企業にふさわしい国際性のあるマークであること
- 総合映像情報機材メーカーとして,幅広い分野で活躍しているイメージのあるマークであること
- 成長する企業にふさわしい力強さと開発力を感じさせるマークであること
このようなポリシーのもとに,CIデザインシステムの検討が進められ,1979年(昭和54年)4月,新しいCIマークおよびグリーンを基調としたデザインシステムの基本方針を決定した。引き続いて,CIマニュアルの作成や商標の登録手続きなど,具体的な作業を進めた。
こうして,1980年(昭和55年)1月,新しいCIマークを制定し,新CIマーク制定を機に統一されたマークのもと,社内のあらゆる活動を全社的な見地に立って見直し,より一層業務の効率化を進めることとした。社員章・各種製品パッケージ・広告宣伝・事務用品の新CIデザインへの切り換えを進めていった。しかし,新CIマークの社外に向けての本格的なPRは,折悪しく“シルバーショック”のまっただ中でもあり,異常に高騰した銀価格が落着きをとり戻した7月から開始した。
新聞では,全国有力紙の1ぺージ全面にCIマークを中心とした企業イメージ広告を掲載し,総合映像情報機材メーカーとして,幅広い分野で日々の生活と明るい社会をつくるのに役立っている当社の企業イメージを強く訴えるとともに,すべてのテレビCM・屋外広告ネオン・小売店の店頭看板・セールスカー・物流車両からバレーボールチームのユニホームにいたるまで,新CIマークと新しいデザインにそれぞれ切り換えていった。また,社内では,構内の各種表示板や作業衣・ヘルメットなど,あらゆるものを新CIマークにしてその周知徹底を図り,さらに,富士フイルムグループの各社についても同一形状の社章に統一し,グループの連帯感を高めるとともに,一体となって新CIマークの普及・徹底を進めた。
また「CI」についての理解を深めるため,1983年(昭和58年)1月,CI制定3周年を記念して,富士フイルムグループに働く全員に対し,CIの主旨に基づき,それぞれの持ち場で,どう考え,どう行動していくかを問う作文募集を行ない,意識高揚を図った。
CIマークの新聞広告
1980年(昭和55年)9月
新 CIマークのデザインフォーマットの実際例
平田九州男会長に,大西實社長に就任
平田九州男会長,大西實社長就任披露
1980年(昭和55年)5月30日,取締役会で,社長平田九州男は代表取締役会長に選ばれ,新社長には専務取締役大西實が就任した。
平田会長は,1971年(昭和46年),写真感光材料の輸入が完全に自由化された直後に社長に就任し,以来,ドルショック・オイルショック・シルバーショックという経営環境の激変の中で,世界市場の開拓と企業体質の転換を強力に推進し,当社を“世界の富士フイルム”として世界に通用する国際企業に育てあげてきた。
社長に就任した大西實は,1925年(大正14年)生まれで当年55歳。1948年(昭和23年)当社入社,福岡出張所長・ニューヨーク事務所長・輸出部長を歴任し,1972年(昭和47年)取締役に選任された。その後,1976年(昭和51年)常務取締役に就任,海外事業本部長・営業第一本部長を委嘱され,1979年(昭和54年)5月専務取締役に就任。国際化が一層進展する1980年代を迎えて,ここに社長に就任したのである。
大西新社長は,その就任に当たり次のように呼びかけた。
「私どもが直面している1980年代については“不確実性の時代”あるいは“乱気流の時代”というような言葉がよく使われておりますが,まさにそのとおりで,現在の世界の政治・経済あるいは社会一般の動向は,過去からの連続では想定できない,あるいは予測しえないような不透明かつ不安定な状況の中にあり,今後もこのような状態が続いていくものと考えられます。
私どもの企業を取り巻く昨年来の環境の推移においても,原油価格の不断の高騰と量的な不安定,これに由来する諸原材料やエネルギー価格の急騰,特に主原料たる銀価格の異常なアップダウン,為替相場の大幅な上下や金利のアップなど,あるいはまた,経済成長率の鈍化・財政の硬直化・欧米景気のスローダウン・欧米との貿易摩擦などからくる諸影響,さらには消費者動向の変化や他産業分野からの映像情報産業への参入などなど,文字どおり狂らん怒とうの時期に直面していると申せましょう。
このような環境の中で,積極的な企業戦略を展開して80年代を勝ち抜いてゆくために,私ども富士フイルムとしては,次の八つの課題に取り組んでゆくことが必要と考えております。」
大西社長はそう述べて,次の八つの課題をあげている。
- 世界的視野にたった国際市場戦略の展開
- 写真需要の拡大
- 新事業分野への進出のための企画と開発の推進
- 複合商品,複合システムの開発
- 節銀・省銀製品とシステムの開発
- 全社的な業務効率化の推進
- マーケティング組織の強化と効率化
- 企業体質の転換
そして,これら八つの課題の根幹として,(1)活力と創造力の活用 (2)技術革新の推進 (3)クリエイティブなマーケティングの展開の三つをあげ,全社一丸となって新しい発展に立ち向かうよう呼びかけた。
大西新社長は,このような基本方針のもとに,積極的な経営施策を次々に打ち出していった。
“Vision-50”の展開
銀価格の異常な高騰が世界の写真業界をゆるがせる中で1980年代を迎えて,当社にとっては,投機の対象ともなる「銀」が経営に及ぼすリスクを弱め,企業体質の強化を図ることは,従来以上に切実かつ緊急を要する課題としてクローズアップされた。
加えて,世界市場での地位向上を目指す当社としては,品質とコスト競争力の強化を基盤とするグローバルな戦略展開のため,中・長期的なプランを見定める必要があった。また,時あたかも大西新社長が登場し,そして4年後には創立50周年を迎えるという企業の歴史にとって節目ともいうべき時期にあった。
これらの事情を背景として,1980年(昭和55年)10月に,創立50周年の1984年(昭和59年)を到達時期とする新しい経営目標を策定した。この経営目標は,「Vision-50」(略して,「V-50計画」)と呼称し,企業体質の強化と成長性の確保に重点をおき,当社が進むべき基本方向として次の4項目を掲げた。
「Vision-50」のパンフレット
- 世界市場での地位の向上――“世界の富士フイルム”
これまで当社成長の中核をなしてきた国内の写真感光材料市場を今後とも当社の柱としていくために,新しいユーザーニーズの発掘に力を注いでいかなければならない。同時に,より一層の成長確保のためには,世界市場で大きく伸長していくことが必要である。このため,“世界の富士フイルム”たるにふさわしい地位を確立すべく,世界的視野に立った積極的なマーケティング戦略を展開する。 - 技術革新の強力なる推進――“技術の富士フイルム”
写真感光材料製品における国際競争に打ち勝つための品質・コストの実現と,写真感光材料以外の事業の強化に引き続き努力する。さらに,成長を支え,次の柱となるべき新規事業の開拓を目指し,今後とも技術革新を強力に推進する。 - 変化に耐え,適応できる企業体質づくり
V-50計画実現のためには,従来の考え方・慣行にこだわることなく,また,日常業務の多忙さの中に埋没することなく,V-50計画の具体的施策に果敢に挑戦する。このため,変化に適応できる企業戦略機能を強化し,社内各部門におけるタテ・ヨコの連携を一層密接にしていく。 - 活力ある社内環境づくり
一人一人が,課題は何かを明らかにし,その解決に向かって意識と行動を集中することこそ,今後の企業発展を支える力である。そこで,V-50計画の目標を実現するため,困難な課題解決に向け,必要な話し合い・行動・相互協力を行ない,全社一体となって“燃える富士フイルム”をつくる。
そして,この四つの基本的方向をもとに,1984年(昭和59年)にはこんな会社にしたいという到達すべき姿とそのために実現すべき経営各分野の主要目標を数値で示し得るものは数値として設定した。
また,設定された企業目標を実現するため,この目標を全社に周知させ,各事業場・各部門,さらに各職場の単位までブレークダウンし,従業員一人一人が果たすべき役割を明らかにし,これによって従業員の意識高揚と組織の活性化を図ることもねらいとした。
「Vision-50」は,1980年(昭和55年)10月21日,大西社長のキックオフ宣言をもって全社活動をスタートした。
「Vision-50」の経営目標は,その後各年度ごとに遂行状況をチェックし,未達成部分については,その都度ギャップを埋めるための具体的な施策を検討していく仕組みであった。
部門別の目標展開とその推進のための具体的方法については,各部門の実情に合わせ,それぞれの方法で行なうこととした。このため,すべての部門で必ずしも同一歩調で展開されたわけではないが,各工場では,これまでRM活動や全員参加によるQC活動などで積み重ねてきた成果を土台として,工場ごとのV-50計画がきめ細かく展開された。「V-50大会」を開催して,グループ目標の取り組み状況,問題点や打開策を報告し合うなど,従業員の中にV-50目標へのチャレンジ意識は日を追って高まっていった。
こうして,1984年(昭和59年)のゴールを目指し,「V-50計画」は全社内に活発に展開されていった。