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国際戦略の展開 - 海外拠点と輸出の拡大

 

1970年代に入って、世界経済の激動の中で、当社は、積極的な海外活動を展開していく。特に、1976年(昭和51年)、世界に先駆けて開発に成功した“フジカラーF-II 400”は、当社の技術水準の高さを世界に示し、同時に当社ブランドの国際的地位を大きく高める。また、映画用カラーネガフィルムやテレビ用カラーリバーサルフィルムをはじめとする各種の写真感光材料・光学製品・磁気記録材料製品・その他多くの新製品を海外市場に導入、1980年度(昭和55年度)には、輸出額1,284億円と大きく伸長、輸出比率も32%と、念願の30%を突破する。この間、海外拠点を充実強化するとともに、現地生産体制もスタートさせ、名実ともに“世界の富士フイルム”として、大きく羽ばたいていく。

カラー感光材料の本格的輸出開始と海外ラボ網の整備

当社がそのメイン商品の一つであるアマチュア用カラーフィルムおよびカラーぺーパーの輸出を本格的に行なうためには,まず,海外でのフィルム現像などの処理面で支障をきたさないことが不可欠な条件である。

新規に海外市場に参入する当社としては,その参入に当たって,コダック社の製品と処理の互換性をもつ商品で輸出を進めることをその基本戦略としてきた。

1966年(昭和41年)以降,コダック社の製品と処理の互換性をもつカラーフィルムを逐次商品化し,これによって本格的輸出が可能となった当社は,現地の販売体制とラボ体制の整備を着実に進め,1970年代に入って,いよいよ待望の欧米市場向け本格的輸出を開始した。

[写真]サンパウロの当社カラーラボ

サンパウロの当社カラーラボ

当社海外現地法人あるいは各国代理店によるラボの設立は,一つには当社カラーぺーパーの安定需要先として,もう一つは最高の処理技術によってフジカラーの高品質をユーザーにデモンストレーションすることになるという観点から,当社は積極的にフジカラーラボ網の展開を進めた。すなわち,1970年(昭和45年)西独(デュッセルドルフ)に,1972年(昭和47年)ブラジル(サンパウロ),インドネシア(ジャカルタ),ハワイ(ホノルル)に,1973年(昭和48年)台北,そしてアルゼンチン(ブエノスアイレス)に,1974年(昭和49年)フランス(パリ近郊)に,1975年(昭和50年)ブラジル(リオデジャネイロ)に,1979年(昭和54年),同じくブラジルのポルトアレグレに,このほか,世界の各市場に,次々にフジカラーラボ網を展開していった。これらのラボは当然のことながら,カラーフィルム現像機やカラープリンター,カラーペーパー現像機など当社現像処理機システムを使用するため,他のフォトフィニッシャーに対する当社処理機器システムのデモンストレーションラボの役割も果たし,これら製品の販売にも大きな力となっていった。

カラー感光材料輸出の伸長

1974年(昭和49年)9月,フォトキナ’74で,当時好評を博していた“コダカラーII”対抗品として,カラーネガフィルム“フジカラーF-II”を発表し,ユーザーの期待に応えた当社は,2年後の1976年(昭和51年)9月のフォトキナ’76で,世界に先駆けて超高感度カラーネガフィルム“フジカラーF-II400”を発表した。この開発成功は,当社の写真感光材料の技術および品質に対する評価を世界中に一挙に高めた画期的なことであり,フォトキナ’76での話題を独占した。また,翌1977年(昭和52年)3月シカゴで開かれたPMA(Photo Marketing Association International)ショーでも,当社ブースは人気の的となった。

[写真]米国向けに初出荷されるフジカラーF-II400

米国向けに初出荷されるフジカラーF-II400

[写真]フランスの当社カラーラボ

フランスの当社カラーラボ

“フジカラーF-II400”の発表は,単にアマチュアカラーフィルムの世界最高感度品の発売というだけにとどまらず,当社が世界写真業界の巨人コダック社に匹敵する技術力をもつ写真感光材料メーカーであるということを世界に強く印象づけ,当社製品全体の信頼とブランドイメージを高めるうえでも大きな出来事であった。また,これを契機として,当社アマチュア用カラーフィルムの輸出はさらに一層の伸長をみた。

一方,映画用フィルムでは,カラーポジフィルムは,コダック社の現像処理方式に適合した品質もレベルアップした改良品を完成して以来,米国向け輸出も次第に増加し,安定した受注が継続されたのに加えて,東南アジアや欧州向け輸出も順調に推移した。また,カラーネガフィルムについても,1969年(昭和44年)コダック社の製品の処理システムと互換性をもつ製品を完成して輸出を開始した。

テレビ用カラーリバーサルフィルムの分野では,1974年(昭和49年)当時世界最高感度の“RT400”フィルムを発売して好評を博した。特に,英国BBC放送に採用されてからはヨーロッパ各国への導入が急速に進み,米国をはじめその他の市場に対しても順調に導入された。

海外拠点の充実

[写真]台北事務所

台北事務所

[写真]バンコク事務所

バンコク事務所

[写真]ソウル事務所

ソウル事務所

[写真]ハワイ事務所

ハワイ事務所

1970年代は,海外マーケティングの拠点拡充の時代でもあった。すなわち,1970年(昭和45年)ソウル,台北,シンガポール(1978年,現地法人化),バンコク,ブエノスアイレスにそれぞれ事務所を開設。1972年(昭和47年)ハワイ現地法人(Fuji Photo Film Hawaii, Inc.)設立。1973年(昭和48年)ロンドン事務所開設(1976年,現地法人化)。1979年(昭和54年)モントリオール事務所開設(1980年,現地法人化)。同年マニラ事務所開設。1980年(昭和55年)シドニー事務所開設とワールドワイドに海外マーケティング拠点を拡充した。なお,ブエノスアイレス事務所は,その後,1975年(昭和50年),その機能をFuji Photo Film do Brasil Ltda.に統合した。

また,ブラジルおよび米国の現地法人は,それぞれの国で支店の開設を進めた。ブラジルでは,1969年(昭和44年)リオデジャネイロに支店を開設した。米国では1971年(昭和46年)ダラスをはじめとして,1973年(昭和48年)ニュージャージー,1974年(昭和49年)ロサンゼルスとシカゴ,1979年(昭和54年)セントルイス(後に,シカゴ支店に併合),1982年(昭和57年)アトランタと,逐次,拠点の展開を図った。

一方,海外代理店の数は,1970年代末には全世界で120か国,200社あまりに達し,1960年(昭和35年)の輸出取引国40か国,数十社の時代に比べて隔世の感がある。国別・製品別に設定されているこれら各国の代理店は,当社との密接な連携のもとに“世界の富士フイルム” “技術の富士フイルム”をモットーとし,それぞれの分野でのマーケティング活動を強力に展開している。

[写真]ロンドン事務所

ロンドン事務所

[写真]モントリオール事務所

モントリオール事務所


[写真]マニラ事務所

マニラ事務所

[写真]シドニー事務所

シドニー事務所

海外生産の開始

輸出に注力する一方,当社はブラジル・韓国・インドネシアにおいて,当社単独で,あるいは現地企業との合弁で現地生産を開始した。

○ブラジル

[写真]ブラジル加工工場

ブラジル加工工場

1958年(昭和33年)現地法人としてスタートしたFuji Photo Film do Brasil Ltda.は,その後,インフレの高進や為替問題など数々の困難を乗り越えて着々とその基盤を固め,当社からのブラジルヘの輸出量も増大していった。1970年(昭和45年)には,カラー感光材料の導入も開始し,並行して現地法人自身によるカラーラボ網の整備を進め,サンパウロ・リオデジャネイロ・ポルトアレグレと,相次いで現像所を開設した。しかしながら,一方,現地における外貨不足などに伴う輸入制限強化から,各製品の輸入が次第に難しくなってきたため,現地での生産・加工が強く求められるようになってきた。そこで,当社も現地生産工場の建設を決意,サンパウロ州カサパーバ市に工場用地80万m2(約24万坪)を取得し,1974年(昭和49年)第1期計画として,まず加工工場3,000m2を建設した。当社から輸出したバルクロールの当工場における加工は,1975年(昭和50年)12月から開始された。現在は,カラーフィルムやカラーぺーパーの加工とカラー現像処理薬品の製造を実施しており,ブラジル市場のみならず南米諸国への輸出も行ない,順調に成果をあげてきている。


○韓国

[写真]韓国加工工場

韓国加工工場

1970年代に入って,韓国へのアマチュア向け写真感光材料の製品輸出は,同国の輸入政策上難しくなってきた。当社は,このような情勢に対処するため,現地生産を含むさまざまな対策を検討したが,1974年(昭和49年)末,現地代理店によるバルクロールの現地加工に踏み切ることとした。

1975年(昭和50年)7月,カラーぺーパーおよび35mm判フイルムの加工工場が稼動を開始したが,これによってフォトディーラーやフォトフィニッシャーに対する従来に増してきめの細かい供給サービスが可能となり,現地加工業務は順調に拡大していった。なお,1978年(昭和53年),当社は資本参加して合弁会社とし,加工設備も増強。1980年(昭和55年)に社名もKorea Fuji Film Co., Ltd.に改めた。


○インドネシア

[写真]インドネシア加工工場

インドネシア加工工場

写真需要のおう盛なインドネシアでは,同国の輸入政策上の問題や現地での雇用増加対策などから,当社は現地代理店の加工工場建設を支援することとし,必要設備および加工技術を提供した。新加工工場は1979年(昭和54年)10月にしゅん工,1980年(昭和55年)6月からカラーぺーパーや35mm判カラーフィルムなどの出荷を開始した。

なお,同工場は販売量の増大に伴い,その後さらに生産設備を増強して増産に対処する一方,1982年(昭和57年)8月から,当社の技術援助により35mmカメラの製造を実施している。


このようにして,当社は,輸入政策上あるいは為替問題などで製品輸入の難しい仕向国に対して,現地加工という形をとって市場維持に努める一方,現地製造に関するノウハウを蓄積し,また,プラント輸出の実績を積み重ね,来たるべき海外生産一貫工場(乳剤の仕込から塗布・加工までの生産工場)の建設に向けて着々とその準備を重ねていった。

光学製品およびその他の製品の輸出

[写真]海外向けのパンフレット

海外向けのパンフレット

1970年(昭和45年)以降,当社は,特にカラーフィルムとカラーぺーパーの輸出に最大の努力を傾注してきたが,一般カメラやシングル-8関係など光学製品の輸出拡大にも引き続き努力し,また,X-レイフィルムとマイクログラフィックス製品,フジリスフィルムやPS版などの印刷製版関係製品,放送用ビデオテープ・ホームビデオカセットテープ・オーディオテープなどの磁気記録材料製品の輸出にも力を注いでいった。

光学製品では,1970年(昭和45年),かねてから待望されていた35mm一眼レフカメラ“フジカST701”を発売し,米国および欧州市場に輸出を開始した。“フジカST701”は海外市場で高い評価を得て順調な売れ行きを示し,FUJICA CAMERAのブランドイメージを高めるのに大きな力を発揮した。

以後,当社は,この一眼レフカメラの分野で,“ST801”や“ST901”と高級機化を図り,他方,普及機として“ST605”と“ST-F”を開発,一眼レフのラインアップを充実させた。また,その後,バヨネットマウントを採用したAXシリーズに移行させて高級機分野の強化を図った。

35mmコンパクトカメラでは,“フジカ35FS”,“フジカGE”,“フラッシュフジカ”シリーズ,“フジカオート5”,“フジカオート7”などのほか,“HD”カメラの導入など,特長あるカメラを次々に発売し,独自の地位を築いていった。

また“シングル-8”システムでは,普及機から高級機まで幅広い製品構成の充実に努めてユーザーのニーズに応え,サウンド化も進んで,ホームムービー分野でも海外で確固たる地位を占めるに至った。また,“シングル-8”の普及に伴い,シングル-8カラーフィルムの現像サービス体制も拡充していった。

さらに,110サイズポケットシステムについても,当社は1975年(昭和50年)にポケットカメラおよびフィルムの海外市場への導入を開始し,以後“ポケットフジカフラッシュ”シリーズなど,次々に幅広いレンジの新タイプカメラを市場に送り出していった。

グラフィックアーツの分野では,1971年(昭和46年),新製品“フジリスオルソフィルム タイプV”および“タイプF”を発売した。“タイプV”と“タイプF”の品質は海外でも高い評価を得,この分野における当社品の地位を強固なものとした。

その後も,処理機や処理剤も含めたトータルシステムとして次第に市場を拡大し,印刷製版分野での急速な技術革新に対応した新規製品・新規システムを次々に開発し,この分野の市場ニーズに応えてきている。

一方,オフセット印刷用のPS版の輸出にも力を入れており,1981年(昭和56年)商品化したマルチグレイン品など,品質面で高い評価を得るに至っている。

磁気記録材料の分野では,放送用ビデオテープは,その高品質性が好評を博し,米国をはじめ各市場で急速に伸長し市場を拡大していった。また,ホームビデオカセットテープは,市場の急成長とともに輸出量も急伸。その優れた品質は高い評価を得ている。磁気テープ製品の全輸出額に占める割合も次第に大きくなってきた。

このほか,X-レイフィルムやその処理機,マイクロフィルムおよびマイクロ機器などの輸出も代理店網の拡大,マーケティング活動の強力な推進,そして相次ぐ新製品の導入などによって順調に伸長し,それぞれ重要な輸出商品となっている。

輸出額1,000億円,輸出比率30%を突破

[写真]輸出額の推移 1971年度(昭和46年度)~1980年度(昭和55年度)

1971年(昭和46年)から1980年(昭和55年)に至る期間の輸出額の推移は右図のとおりである。

1971年度(昭和46年度)は,全般的にはカラー製品および光学製品などが伸びたこともあって順調に推移し,輸出額も186億8,000万円を記録して,日本企業の輸出ランキングでも47位と,初めてベスト50入りを果たした。しかし,この年8月のニクソンショックと米国における輸入課徴金問題および円の変動相場制への移行と円切り上げは,当社の輸出にも強い衝撃を与え,1972年度(昭和47年度)にかけては主要輸出先である米国向けが停滞を余儀なくされ,また全体の輸出にもブレーキがかけられた。

その後,1973年度(昭和48年度)にかけてカラー製品の輸出増大策などで回復を図ったが,1973年(昭和48年)10月に発生した第1次オイルショックによって輸出環境はさらに悪化した。すなわち,銀価格など全般的な原料価格の上昇により採算性が悪化し,また,世界的規模で不況が進行している中で輸出しなければならない困難さも加わった。このため,1974年度(昭和49年度)には全般に輸出数量は伸び悩んだが,カラー製品,特にカラーぺーパーの輸出伸長などで輸出額のカバーを図った。

1975年度(昭和50年度)は,カラー製品とX-レイフィルムや映画用フィルムなどが順調に推移した。翌1976年度(昭和51年度)には米国の景気が回復に向かい,世界経済の行方にやや明るさが見えはじめたこととフォトキナでの“フジカラーF-II400”の発表を契機とするカラーフィルム・カラーぺーパーの輸出増大などから,輸出金額は前年度比35.6%増と大幅に増加し,546億円と初めて500億円を突破した。また,輸出地域別では,欧州地域向けの伸長が著しく,1977年度(昭和52年度)には初めて北米向けを上回る輸出額となった。

しかし,1978年度(昭和53年度)には,前年後半からの急激な円高のために輸出競争力が低下し,輸出金額も676億円と対前年比1.6%の減少を余儀なくされた。さらに1979年度(昭和54年度)には,第2次オイルショックの発生と銀価格の異常な暴騰による対策を迫られ,大幅なコストァップに対する価格改訂の実施など,さまざまな困難な状況を克服しなければならなかった。

1980年度(昭和55年度)の輸出環境には依然厳しいものがあったが,当社の積極的な輸出努力,現地販売体制の充実整備,新製品の導入,欧州向け輸出の伸長,輸出価格の改訂および円安効果などから,輸出金額は対前年比63%増の1,284億円と,初めて1,000億円の大台を突破。わが国企業全体の輸出ランキングでも35位にランクされ,当社全売上高に占める輸出比率も31.7%と初めて30%台を達成した。

このようにして,当社は当面の目標であった輸出1,000億円,輸出比率30%を達成し,名実ともに“世界の富士フイルム”へと前進した。

 
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