感圧紙の伸長 - 増産体制の確立と技術輸出
当社は、1963年(昭和38年)、“感圧紙”を発売し、ノーカーボン紙市場に進出するが、“感圧紙”は、複写帳票用あるいはコンピューターアウトプット用として需要が急伸、1971年(昭和46年)には、富士宮工場に3号塗布機を増設して、増産体制を確立する。この間、品質の改善を進め、次々と新製品を開発するとともに、「ビューティフル帳票キャンペーン」や「帳票エコノミーキャンペーン」など積極的な普及活動を展開、シェアアップを図る。一方、スペインのサリオ社をはじめ、英国のDRG社など世界各国への技術輸出を行ない、世界的な供給網を形成、また、“感圧紙”の応用製品として、圧力測定フィルム“プレスケール”を開発する。
ノーカーボン紙市場の成長と当社の対応
富士宮工場感圧紙新鋭工場
(3号塗布機)
感圧紙販売促進活動
ビューティフル帳票キャンペーン
帳票デザイン設計サンプル帳
コンピューターアウトプット用に
使用されている感圧紙
ノーカーボン紙は,使用上のメリットが次第にユーザーに認められ,また,コンピューターアウトプット分野での需要も急増し,年間2けたの成長を続け,1970年(昭和45年)には複写帳票の30%を占めるまでになった。
当社の“感圧紙”の販売も順調で,急増する需要に供給が追いつかなくなってきたため,1971年(昭和46年)10月,富士宮工場に新鋭塗布機(3号塗布機)を新設し,対応することとした。
また,このころ複写帳票業界で問題となったノーカーボン紙染料溶解オイルの環境汚染問題も,当社は1971年(昭和46年)3月に,自主的にオイル切り換え対策を完了し,ユーザーに広くアナウンスした。
販売促進活動として,1973年(昭和48年)3月から“ビューティフル帳票キャンペーン”を開始するとともに,ユーザーニーズに沿った商品開発を図り,同年8月には高濃度無臭のニュータイプ品を発売した。
しかし,この年起きた石油ショックにより,当社も一部の原料の入手不足をきたして,一時供給が混乱した。一方,市場でも,物不足や値上げ懸念などから仮需要が発生したりして,ユーザーの要望にいかに対応するかに腐心する時期があった。
こうしたさまざまな出来事の中で,“感圧紙”の販売は,着実に伸長したが,石油ショック後の不況下,ユーザーの節減ムードも高まり,帳票のトータルコストダウンを図る中で,ノーカーボン紙の役割を改めて問い直す動きが生じてきた。このような市場の動きに対応して,当社は「帳票エコノミーキャンペーン」を展開し,その一環として,帳票エコノミー通信講座の開講や帳票エコノミー研究会の発足など,ユーザーニーズにマッチしたマーケティング活動を実施した。品質面では,“感圧紙”の発色色調を明るいブルー(ブリリアントブルー)に改良するとともに,濃度アップした製品を発売して他社品との差別化を推進した。
1977年(昭和52年)になると,ノーカーボン紙帳票は,複写帳票全体の過半数に達し,当社“感圧紙”の販売も好調に推移した。また,この年「富士フイルム感圧紙帳票コンテスト」を行ない,帳票のフォーマットそのものをいかに合理的に作成するかというソフトウエア分野に踏み込んだきめ細かいマーケット施策を実施し,ユーザーの便を図るとともに帳票の質的水準向上の一助とした。
一方,普及期に入っていたオフィスコンピューターは,中小規模の会社・商店のノーカーポン紙需要を急激に掘り起こす作用をもたらし,市場は急激に拡大していった。
従来,紙製品の中で特殊紙扱いを受けてきたノーカーボン紙も,数量の増大により一般紙化してきたが,比較的成長が鈍い一般紙の中で,ノーカーボン紙だけは引き続き高い成長を続けてきた。反面,ノーカーボン紙の一般紙化は,ユーザーのブランドに対する志向を弱めてきたので,当社は1978年(昭和53年)に,ユーザーの“感圧紙”指名化とシェアアップ対策を兼ねて,帳票の隅に“感圧紙”であることを示した「F-KAN」と入れる「F-KANキャンペーン」を実施した。
“感圧紙”の技術輸出
感圧紙の技術輸出をした
スペインのサリオ社
一般に,ノーカーボン紙は各国ごとに要求品質や販売チャネルが異なることなどから,当社は海外市場については技術輸出を中心として事業の拡大を図る方針とした。
この分野における最初のライセンシーは,スペインの特殊紙トップメーカーのサリオ社で,1968年(昭和43年)2月に技術輸出契約を締結。同社に対して欧州主要国への独占販売権を許諾した。これにより,同社は1970年(昭和45年)末に新工場をしゅん工させ,翌年春からスペインでの本格生産を開始。1975年(昭和50年)には2号機を設置して業績の拡大に努め,その後,当社との契約を更新して現在に至っている。
サリオ社に次いで,英国のDRG(ディッキンソン・ロビンソン・グループ)からライセンス取得の申し入れを受け,1969年(昭和44年)3月,成約に至った。同社は英国屈指の製紙会社であり,円網抄紙機の発明や高級レターぺーパーなどのメーカーとして著名であるが,ノーカーボン紙分野の拡大にも積極的で,1980年(昭和55年)には契約をさらに10年延長。新規設備投資も実施している。
一方,世界最大のノーカーボン紙市場である米国においても,1972年(昭和47年)8月,ミード社に対して技術輸出契約を締結した。同社は感圧紙事業を重点的に推進し,順調に業績を伸ばして,すでに米国内で高いシェアを獲得している。
以上のように,当社の“感圧紙”技術輸出は,いずれも各国大手製紙会社に対して行なったが,これは各国市場に適した品質を目標とすることと提携先の確立された販売網を利用することが適当であるとの判断に立つものであった。
また,これらの会社は技術改良も独自に実施しており,当社の技術開発にも有益な寄与が得られるなどのメリットも出てきている。
その後,東南アジア地域で,1976年(昭和51年)12月台湾の凱得実業股有限公司,中南米地域では,1981年(昭和56年)2月アルゼンチンのマスウ社,そして1984年(昭和59年)4月には南アフリカのナムパック社とそれぞれ技術輸出契約を結び,ここに当社の“感圧紙”技術から生み出される製品は,世界の主要市場をほぼカバーするに至った。
また,これら技術輸出によるライセンシーの年間生産量の合計は,当社の生産の2倍以上に達し,当社とライセンシー各社を含めた“感圧紙”グループの総生産量は,世界総需要の4分の1を占めるに至っており,今後さらに順調な伸長が期待されている。
“プレスケール”の発売
富士フイルム
プレスケール
当社では,“感圧紙”の改良研究を行なう一方,マイクロカプセル技術を応用した他の利用方法についても研究を進め,1977年(昭和52年)4月,圧力測定用フィルム“富士フイルムプレスケール”の開発に成功した。
“プレスケール”は,発色剤を入れたマイクロカプセルを塗布したAフィルムと顕色剤を塗布したCフィルムをペアで使用するもので,圧力の強いところは濃く,弱いところは薄く発色するようにし,専用の濃度計で色濃度を測定することによって圧力値を求めるようにしたものである。これまで圧力測定には大規模な装置や複雑な計算を必要としていたのに対し,だれでも簡単に圧力測定が可能となり,しかも圧力分布が一目でわかるうえに,そのまま長期保存することもできるというユニークな商品である。
その後,1978年(昭和53年)9月には,従来の低圧用・高圧用に中圧用を加え,“ニュータイプ富士フイルムプレスケール”を発売した。これによって測定範囲がcm2当たり 10kgから 700kgまで拡大するとともに,cm2当たり 100kgから 200kgの範囲の濃度差を大きくして圧力分布をわかりやすくした。さらに翌1979年(昭和54年)7月には超低圧用も加え,圧力測定範囲をcm2当たり 5kgから 700kgに拡大させた。
“プレスケール”は,ボルト締め付け部分の圧力測定などのほか,各種の圧力測定に用いられており,その用途は今後さらに大きく広がろうとしている。