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グラフィックアーツ機材事業の伸長

 

印刷製版業界では、1970年代に入って、カラースキャナー、高速オフセット輪転機、電算写植機が普及し、カラー化、オフセット化、コールドタイプ化が進展する。当社は、このような市場動向に対応し、各種の機材と処理システムの開発を進める。各種スキャナーの開発に対応し、スキャナーフィルムの品種を整備し、リスフィルムの新しい現像処理システム“富士フイルムHSLシステム”を開発する。また、各種の写植用感光材料を整備する。一方、新聞印刷市場向けに各種ファクシミリフィルムと処理機器を発売するとともに、新聞全ぺージ出力可能な高感度の赤感性“富士電算写植ペーパーFPPS”などを開発する。

印刷製版業界の変化とグラフィックアーツ部の発足

1970年代に入って,引き続き印刷需要が増加していく中で,印刷製版分野における技術革新のテンポはますます速くなり,また,印刷製版機材の市場での競争も一段と激しくなってきた。このような業界環境の中にあって,当社は,1970年(昭和45年)9月,これまで産業材料部の中にあった印刷製版機材の営業部門を独立させ,グラフィックアーツ部を新設し,各種製版フィルムや刷版材料およびその処理機材などの営業活動の強化を図った。

印刷製版技術の革新は各分野で進み,次々と新しい技法やシステムが採り入れられていった。

写真製版の分野では,手作業の多い製版カメラによる色分解工程に代わって,高品質で迅速に色分解版を作成できるカラースキャナーが急速に普及し,商業印刷物や出版分野でのカラー印刷需要の増加と相まって,印刷物のカラー化が進んでいった。

印刷方式の面では,オフセット印刷方式がますます普及していった。オフセット印刷は,簡単にしかも迅速に刷版を作れるなどの作業性の良さと,高速かつ大量印刷に適し,しかも,生産コストが安いなどの長所があり,PS版の品質向上と高速オフセット輪転機の普及により,印刷方式のオフセット化は急速に進行していった。

文字印刷の分野については,写真的に植字を行なう写真植字機が普及し,さらに,高速の電算写植機も普及し,コールドタイプ化の方向に進み,文字製版の能率化が実現していった。

一方で,これらの技術革新に対応し,また一方では,若年労働力の不足や熟練者の減少などの問題に対処するためにも業界の近代化の動きが進展した。印刷製版事業者の大多数は中小企業であるが,1971年(昭和46年)3月,印刷業および写真製版業の中小企業近代化計画が策定され,翌年,構造改善事業がスタートし,新技術の導入と設備の近代化が促進された。

1973年(昭和48年)秋に発生した石油ショックによって商業印刷物の発注減少などにより印刷製版業の成長率も鈍化し,業界は厳しい環境に置かれたが,近代化への努力は続けられた。第1次構造改善事業が1978年(昭和53年)3月で終了してからも,引き続き近代化計画に取り組み,1980年(昭和55年)からは第2次構造改善事業がスタートした。

このように,急速な技術革新と業界環境の大きな変革が進む中で,当社のグラフィックアーツ機材関連の事業も,これらに対応しつつ進展していった。

ダイレクト分解用スキャナーフィルムの開発

1970年代に入って,カラー原稿の色分解方式は,原稿を連続階調の分解版に撮り分けて,それからそれぞれの網版を作る従来の2工程方式に対して,製版の迅速化と経済性から,1工程で直接に網階調の分解版を作成するダイレクト分解方式が普及してきた。

この動きに対応して,当社は,まず1970年(昭和45年)4月,製版カメラによるダイレクト分解用フィルムとして,直接網分解用の“フジリスパンクロフィルム(HP)”と“フジリスハイスピードオルソフィルム(HO)”を発売した。

“HP”はパンクロタイプの網分解撮影用フィルム,“HO”は高感度オルソタイプの網分解撮影用フィルムで,いずれも原稿から直接網階調の分解版を作るリス型フィルムである。“HP”を4版に使用する場合でも,HP(シアン版用,墨版用)とHO(マゼンタ版用,イエロー版用)の組み合わせで使用する場合でも,網階調バランスの整った高品質のフィルムであった。

一方,スキャナーの分野でも,新たに,直接,網階調の分解版を作るダイレクトスキャナーが登場した。このダイレクトスキャナーは,色分解と同時に色補正,階調修正などを高品質かつ効率的にできるため,急速に普及していった。ダイレクトスキャナーの網点形成の方法は,コンタクトスクリーンを使用する方式とコンタクトスクリーンを介在させずに原稿の濃淡を電子的に網点変換する網点発生装置(ドットジェネレーター)による方式との2方式がある。

[写真]富士スキャナーフィルム群(レーベル)

富士スキャナーフィルム群(レーベル)

当社は,1972年(昭和47年)4月,まず,コンタクトスクリーンを使用するオルソタイプの“富士スキャナーフィルムSC-71”を発売,1978年(昭和53年)7月にはドットジェネレーター用オルソタイプ“富士スキャナーフィルムLS-200”を発売した。

1980年(昭和55年)12月,ヘリウムネオンガスレーザーを露光光源とするコンタクトスクリーン使用の“LS-400”を発売し,その後も,現有の全スキャナー機種に対応して“LS-500”や“LS-600”,“LS-700”などを整備し,ラインアップの充実を図った。

また,1983年(昭和58年)4月,新たに,新聞製作工程における版下用として赤感性スキャナーぺーパー“富士スキャナーぺーパーPE-100WP”を商品化,また同年12月,発光ダイオードを露光光源として使用するドットジェネレータースキャナー専用の“富士スキャナーフィルムLS-2000”,“富士スキャナーぺーパーLP-2000”を同時に発売し,一層の品種整備の充実を図った。

良い印刷物を得るには,スキャナー機能を十分に生かしたスキャナー分解条件を設定することが重要であり,当社は,単にスキャナーフィルムを販売するだけでなく「より好ましいスキャナー表現を」の理念のもとに,スキャナーに関するセミナーやトレーニングを全国的に実施した。

また,1983年(昭和58年)4月にはカラー原稿とカラースキャナーの各種処件の印刷見本および解説書などで構成される“富士スキャナーテクニカルキット”を作成し,ユーザーの要望に応えた。

フジリスフィルムの整備

[写真]フジリスオルソフィルム タイプL(レーベル)

フジリスオルソフィルム
タイプL(レーベル)

[写真]フジリスコンタクトフィルム タイプK(レーベル)

フジリスコンタクトフィルム
タイプK(レーベル)

当社は,かねてから,各種用途に使用できるリスフィルムの商品化とその品質向上を図ってきたが,1970年代には密着返し用フィルムの用途が多様化し,これに伴い,要求される性能も多様化してきた。当社は,これに対応して次々と品種の整備を行ない,ユーザーの要望に応えていった。

1972年(昭和47年)9月,文字・線画原稿撮影用と密着用のエコノミータイプ“フジリスオルソフィルム タイプL”を発売した。

1972年(昭和47年)12月,レギュラーの感色性で明るいセーフライト(黄緑光)の下で処理可能な密着専用フィルム“フジリスコンタクトフィルム タイプK”を発売した。

また,1975年(昭和50年)5月には“フジリスハイスピードデュープリケイティングフィルム”を発売した。このリスフィルムは,高コントラストの密着用オルソクロマチックフィルムで,網点および線画原稿から原稿と同じものが複製できるフィルムである。

海外市場では,他社フィルムメーカーとの競合上“タイプK”より高感度の密着用フィルムが必要となり,1973年(昭和48年)9月,輸出専用として高感度の“フジリスコンタクトフィルム タイプC”を発売した。

“富士フイルムHSLシステム”の開発

オフセット印刷,とりわけカラーオフセット印刷の普及に伴って,一層高品質の印刷が求められるようになってきたが,優れた品質の印刷物を得るためには,品質の優れたリスフィルムが必要であると同時に,現像液や現像処理の安定化も不可欠である。

当社は,すでに,リスフィルムと処理薬品,自動現像機の三つの組み合わせで,現像処理を安定させる“SSシステム”を完成して,そうした需要に応えてきた。しかし,“富士SSシステム”は処理中の現像液管理を容易にするなど,リスフィルムの現像処理の安定化を実現するものであったが,休日後には,現像液の感度補正などを適宜行なわなければならないわずらわしさを残していた。

このような現像液管理のわずらわしさを根本から解決して,長期間安定して高品質を維持するシステムを完成するため,特別チームを編成して新しいリスフィルムの現像システムの開発に取り組んだ。その結果,1977年(昭和52年)12月,画期的な“富士フイルムHSLシステム”を完成し,発売した。

[写真]富士フイルムHSLシステム

富士フイルムHSLシステム

“HSLシステム”(High Quality Super Stabilized Lith Film Method,高品質超安定リスフィルム現像方式)は,ニュータイプフジリスフィルムと新しい液体タイプの現像剤・現像補充剤,および補充装置“FGコントローラー”から構成されていた。

HSLシステムの最大の特長は,現像液の疲労を処理疲労(処理枚数の増加に伴う現像液の性能低下)と経時疲労(時間の経過に伴う現像液の性能低下)とに明確に分離して,それぞれに対応して補充液を補充するようにしたことである。それと同時に,従来,粉末状であった現像剤を液体に変え,取り扱いやすくするとともにロングライフ化を図り,母液の交換頻度もそれまでの3分の1程度に減らすなど,作業性・経済性の向上を実現した。また,自動補充装置“FGコントローラー”は,すでに使用している自動現像機に装着するだけで導入できるようにした。

このように“HSLシステム”は,製版工程で最大のネックとなっていたリスフィルムの現像処理を一段と安定化する画期的なシステムであり,大手印刷会社だけでなく,中堅印刷会社や製版専門会社にも採用され,ユーザーの製版工程の合理化に大きく寄与した。

“HSLシステム”は,製版工程の高品質化と超安定化を実現し,業界の発展に寄与した優れた新技術であることが認められ,1979年(昭和54年)2月,その開発担当者に対し日本印刷学会技術賞が贈られた。

写植用印画紙・フィルムの開発

オフセット印刷の普及に伴って,従来の活字に代わって写真の手法を使って文字を組む写真植字(いわゆる写植)が次第に普及してきた。写真植字は文字盤のネガ文字をレンズを通して拡大・縮小し,印画紙・フィルムに露光(印字)し,印刷原稿とする方式である。活字鋳造に頼らず写植文字を使用する印刷方法はCTS(Cold Type System)化といわれ,活版のように活字を1本ずつ組版することなく,クリーンな作業で製版用原板ができあがる。さらに,コンピューターと結びついた電算写植機の登場によって印字スピードも大幅に向上し,印刷製版業界のCTS化が進んだ。

[写真]富士写植ペーパーWP

富士写植ペーパーWP

写真植字用印画紙としては,早くから,当社の引伸用印画紙(富士ブロマイド紙)が使用されており,1954年(昭和29年)10月には写植用専用印画紙として“富士写植ブロマイド”を発売した。その後,1971年(昭和46年)5月には,クイックシステムの“クイック写植ぺーパー”を,翌1972年(昭和47年)4月には“クイック電算写植ぺーパー”を発売した。また,1974年(昭和49年)6月には印画紙の支持体の表裏をポリエチレンでラミネートした“富士写植ぺーパーWP”を発売,次いで翌年11月には“富士電算写植ぺーパーWP”を追加発売した。

この“WP”ぺーパーは,従来のバライタ紙に比べ,水洗処理や乾燥時間が短く,自動現像機適性にも優れている。伸縮性が少ないので,寸法精度を必要とする印刷原稿に適する写植ぺーパーであった。

さらに,工程短縮のため,フィルムに直接印字する需要も生まれた。これに対して,当社は,1965年(昭和40年)11月,手動用の“富士写植フィルム”を発売し,1971年(昭和46年)5月には電算写植用の“富士電算写植フィルム”を発売した。

新聞用ファクシミリフィルムの開発

新聞紙面を電電公社回線を利用して遠隔地に電送し,受信地で現地印刷をする方法として新聞ファクシミリ(紙面電送)が利用されている。

日本で初めて新聞紙面電送用としてファクシミリが利用されたのは,1959年(昭和34年)のことであった。この年6月,朝日新聞社は東京・札幌間でファクシミリによる紙面電送を開始,同時にオフセット輪転機を用いて新聞印刷のオフセット化を実現した。

当社は,1959年(昭和34年)6月,高コントラスト・高濃度・高解像力の“富士ファクシミリフィルム”を開発し,朝日新聞社に納入した。

当初のファクシミリ受信機の光源にはクレーターチューブ(グロー放電管)が用いられていたが,その後,ヘリウム-ネオンレーザーやLED(発光ダイオード)などが次々に開発された。それに伴い,当社は新聞紙面電送受信機に適した受信用フィルムとして,1972年(昭和47年)7月,クレーターチューブ光源用の“富士ファクシミリフィルムXB-100”を,1974年(昭和49年)4月にはヘリウム-ネオンレーザー光源用の“富士ファクシミリフィルムXL-100”と同“XL-100M”を,1981年(昭和56年)12月にはLED光源用の“富士ファクシミリフィルムXE-100M”を,それぞれ発売するとともに,受信機と自動現像機を結ぶフィルムオートキャリアを開発して市場に導入し,受信フィルム処理の完全自動化と明室処理化を実現した。

新聞印刷CTS化への寄与

新聞印刷には,従来,鉛版を使用する凸版輪転機が用いられてきたが,短時間に何十万,何百万部という大量部数を印刷する新聞印刷の迅速化と印刷仕上がりの向上のために,各種の新しい方式が開発され,次々と取り入れられてきた。

新聞社では,コンピューターを用いて紙面レイアウトを行なうCTS(Computerized Typesetting System,コンピューターと電算写植機を結びつけ,紙面レイアウトするシステム)化とさらに,印刷紙面の向上とカラー紙面の導入を目指したオフセット印刷化が新聞製作の主流となりつつある。

当社は,このような新聞製作システムの技術革新に対応して,次々と新しい製品や システムを開発していった。

1975年(昭和50年)から一部の新聞社は,大型コンピューターを用いて,本文や見出し・写真を電子的に編集し,新聞1ぺージをそのまま写真感光材料に出力する方式を開発した。

このシステムに対応して,当社では,1976年(昭和51年)11月,新聞全ページの出力ができる高感度の赤感性“富士電算写植ぺーパーFPPS”を開発して新聞社に納入した。その後,紙面編集部門から印刷工場へ紙面電送を行なう時のファクシミリフィルムや自動現像機,フィルムオートキャリア装置などの開発とPS版の高速・大量処理技術の確立を行ない,関連する諸機材を納入した。

フジリスフィルムの海外市場への展開

フジリスフィルムの米国市場への本格的な輸出は1965年(昭和40年)に開始,続いて,1967年(昭和42年)には欧州地域に対しても輸出を開始した。

特に,欧州地域に対しては,1967年(昭和42年)5月に西ドイツで開かれた世界最大規模の印刷総合機材展「DRUPA’67」への出展が契機となっているが,この展示会への出展を足がかりに,欧州をはじめとして,中南米など,各国の有力ディストリビューターとの接触が開始され,セールスネットワークの構築が進んだ。

「DRUPA」への参加は,印刷技術の先進市場として当時すでにカラー印刷の隆盛期にあった欧州市場に当社が本格的に進出する意思表示を行なったものとして特記される。当時の輸出商品は“フジリスオルソフィルム タイプO”と“富士カラーセパレーションフィルム”が主力であった。前者は,当時の市場における主力商品たるコダック社の製品と同等の感度と網階調を有し,ユーザーはこれまでの使用条件を変えることなく採用できることから,徐々に浸透していった。後者は,現地の現像液に対する適性が異なるので,ユーザー個々にデータ出しの技術サービスを行なうなど地道な販売活動を行なったが,やがて色分解の方式がスキャナーに移行するにつれ,スキャナーフィルムヘとその座を譲り,その後の当社スキャナーフィルム大躍進の礎石となった。

“フジリスオルソフィルム タイプO”は,1971年(昭和46年)から“タイプV”および“タイプF”に切り換え,感度が高いこと,網点品質に優れていることが当時の市場にアピールし,急速にユーザーを獲得していった。その後,海外市場に狙いを合わせた高感度密着用途の“フジリスコンタクトフィルム タイプC”を導入したのをはじめとして,次々と,海外市場動向を踏まえて開発した各種フジリス製品群を投入していった。

引き続き,“フジリスオルソフィルム タイプL”,“フジリスハイスピードオルソフィルム(HO)”を投入したが,“タイプL”は,その品質と性能の優秀性から多くのユーザーの支持を得,また,“HO”はコンタクトスクリーンを使用するダイレクトスキャナー用フィルムとして最高品質であるとのスキャナーメーカーの高い評価を受けた。

1978年(昭和53年)には,リスフィルムの超安定現像方式“HSLシステム”および自動現像機“FG25L”を市場に導入したが,これらとの組み合わせによるフジリスフィルム群の高品質な仕上がりと品質の安定性が評価され,フジリスフィルムによる製版用フィルムメーキングシステムは世界市場に確固たる地盤を築くに至った。

 
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