電子写真へのチャレンジ - 富士ゼロックス社の設立とEPMの完成
新しい写真法として電子写真が登場し、実用化の時代を迎える。当社は、いち早く電子写真に着目し、研究を開始、1961年(昭和36年)、ランク・ゼロックス社と技術提携契約を結び、翌1962年(昭和37年)2月、合弁会社として富士ゼロックス株式会社を設立する。当初は、製造を当社が、販売を富士ゼロックス社が担当して出発するが、電子複写機“ゼロックス”は予想を上回る急成長を遂げる。1971年(昭和46年)、当社の製造部門である竹松工場を富士ゼロックス社に移管し、富士ゼロックス社は、製造・販売を一体化して、より大きな飛躍を遂げていく。この間、当社は電子写真の用途開発を進め、電子写真罫書き装置“EPM”、鋼板マーキング装置“TM”を完成する。
電子写真の研究
従来の写真がハロゲン化銀が光の作用で還元される性質に基づく化学的写真法であるのに対し,光の作用で電気が流れやすくなる物質を利用した電子写真法が,物理的写真法として登場してきた。
電子写真法は,多数の変形を含むが,発展の初期には,ゼログラフィー方式とエレクトロファックス方式の二つが主体であった。
当社は,この電子写真について,早くから着目した。将来性の高いこの技術は,当社の主力事業たる銀塩写真の分野に,早晩少なからぬ影響を及ぼすことが予測されるので,当社として早急に開発に取り組むべき課題であると考え,技術情報の収集に努め,基礎的な研究に着手した。
当社は,1955年(昭和30年)からゼログラフィー方式について本格的な研究に着手,翌1956年(昭和31年),初めて電子写真像を得ることに成功した。
しかし,電子写真の分野は技術的にも高度で,特許の壁も厚く,当社が独自に開発するには相当長期間かかると予測された。そのため,当社は,ランク・ゼロックス社にゼログラフィー方式の技術導入の可能性について打診を行なうとともに,RCA社とエレクトロファックスの技術導入交渉も進めた。
RCA社では,エレクトロファックスの特許を公開しており,当社は,他の日本メーカー3社とともに,1957年(昭和32年)4月,特許実施権の許諾を得た。
フジックス300Bの試作品
そこで当社は,ゼログラフィーについての研究を進める一方で,エレクトロファックスの商品化に取り組み,1960年(昭和35年)5月,エレクトロファックスによる複写装置“フジックス”を発表した。“フジックス”は,自動複写機“100A”,引伸し用ユニット“200A”,等倍複写装置“300B”の3機種からなり,いずれも,帯電・露光・現像・定着を連続して行なう完全自動型の複写装置で,ボタンを押すだけで鮮明な複写が得られる画期的な複写システムであった。“フジックス”は,ビジネスショーに出品して大きな注目を浴び,その発売に大きな期待が寄せられた。
しかし,並行して進めていたゼログラフィーの研究が大きく進展し,ランク・ゼロックス社と合弁で富士ゼロックス株式会社を設立,ゼロックス事業に進出することになったため,競合を避けるべく“フジックス”の発売は見送った。
富士ゼロックス株式会社の設立
ゼログラフィーは,米国のカールソン(C.F.Carlson)が,1938年(昭和13年),いおう・セレンのような物質の光電導効果を静電荷像形成に結び付ける像形成技術を発明したことに始まる。カールソンのアイデアは,その後,バテル研究財団で具体化され,ハロイド社(後にハロイド・ゼロックス社と改称,現在のゼロックス・コーポレーション)によって事業化された。同社は,1950年(昭和25年),ゼログラフィーのプロセスを応用して簡易オフセットの刷版をつくるための“ゼロックスモデルA型”複写機を開発し,発売した。
当社は,ゼロックス事業への進出に当たっては,特許の関係から技術を導入するほうが得策であるとの判断から,1957年(昭和32年)9月,極東地域で製造販売権を有するランク・ゼロックス社に対し,日本における製造および販売のライセンス譲渡を申し入れた。これに対し,ランク・ゼロックス社は,まだ技術が未熟でライセンスどころではないが,将来,時期が来たら最初に当社と交渉するとの回答をよこした。
その後,1958年(昭和33年)1月,ランク・ゼロックス社から,ライセンス交渉を進める時期が来たとの連絡があり,技術提携交渉が具体化していった。
この間,研究所では,すでに複写装置および処理法の研究に着手していた。さらに,1958年(昭和33年)1月には,研究所小田原分室に感光プレートの試作のため真空蒸着装置を設置して,研究を本格化させた。そして同年11月,ゼログラフィー研究の現況報告書をランク・ゼロックス社に提出すると同時に,セレン感光板・現像剤の試作見本と,プリントサンプルを送付した。
これによって,当社の技術力が改めて高く評価され,このことが,ランク・ゼロックス社が当社を提携パートナーに選定するための一つの要因となった。
1959年(昭和34年)6月,当社は,事業の多角化戦略を推進するために,本社に開発部を新設し,その多角化戦略の一環として,ゼロックス事業の事業化計画の具体的検討を開始した。
ゼロックス914
一方,同年9月,ハロイド・ゼロックス社は,複写機“ゼロックス914”を発表した。“ゼロックス914”は,普通紙にコピーのとれる世界初の完全自動複写機で,新しい複写時代の到来を告げるものとなった。
その直後の10月,ランク・ゼロックス社の首脳が相次いで来日し,日本におけるゼロックス事業の展開方法について当社と協議を行なった。その結果,同年11月,合弁で新会社を設立し,日本におけるゼロックス事業を行なうという提携の基本方針がまとまり,覚書を取り交わした。
この基本方針に基づき,合弁事業・技術援助・製造などに関する具体的条件について交渉を重ね,翌1960年(昭和35年)12月,当社は,ランク・ゼロックス社との間に合弁会社設立の共同事業契約を調印し,また,ランク・ゼロックス社と,富士ゼロックス株式会社設立発起人代表たる当社との間で,技術援助契約を調印した。
ランク・ゼロックス社が当社を提携先として選定した理由としては,先に述べた技術力の評価と並んで,当社の経営陣に対する強い信頼があったことがあげられる。技術と品質,そして何よりも信用を重視する当社の経営姿勢とゼロックス事業に対する積極的な熱意が,両者の提携に導いたといえる。
翌1961年(昭和36年)3月には,小田原工場に電子部電子写真課を設置した。研究所電子写真研究室をここに移管するとともに,電子写真課で電子写真材料の製造を担当することとし,生産設備の建設計画を進め,事業開始に備えた。さらに,同年7月には富士ゼロックス設立準備本部を設置し,準備を急いだ。
1961年(昭和36年)12月5日,ランク・ゼロックス社との技術提携が政府の認可を得たので,直ちに新会社の設立手続きを進め,翌1962年(昭和37年)2月20日,富士ゼロックス株式会社の創立総会を開催し,同社の誕生をみた。払込資本金は2億円,当社とランク・ゼロックス社が50%ずつを出資し,全く対等の合弁会社であった。役員も,双方同人数に,取締役5名ずつ,監査役1名ずつを選任した。取締役社長に小林節太郎(当社取締役社長),取締役副社長にT.A.ロウ(Mr.T.A.Low,ランク・ゼロックス社社長),専務取締役に庄野伸雄(当社取締役開発部長)が,それぞれ選任された。
富士ゼロックス株式会社創立時の役員
ゼロックス事業への進出に当たっては,ランク・ゼロックス社との契約によって,
当初は,富士ゼロックス社は販売のみの会社としてスタートし,消耗品(感光ドラム,現像剤など)の生産は当社が,機器の生産は富士写真光機株式会社が,それぞれ担当した。富士ゼロックスは,発足以来,積極的な営業活動を展開した。発足当初の主力製品“ゼロックス914”複写機は,この分野の商品としては前例のないレンタルシステムを採用した。営業拠点も逐次全国に拡大し,事業は順調に伸長した。
竹松工場の建設と移管
竹松工場 1970年(昭和45年)当時
竹松工場譲渡契約調印式
富士ゼロックス株式会社本社
ゼロックス複写機に用いられる感光体であるドラムとトナーなど消耗品の生産は,小田原工場に建設中の設備の完成により,1963年(昭和38年)4月から開始された。同年10月には,電子写真課を電子写真部とし,生産体制の整備を図った。
しかし,ゼロックス複写機の設置台数は予想をはるかに上回るスピードで増大を続け,小田原工場のドラムその他の消耗品の生産能力が需要に追いつかなくなると見込まれてきた。
そこで当社は,これら消耗品の増産のため新工場を建設することとし,その建設用地を,足柄工場に近い神奈川県南足柄町(現南足柄市)竹松地区に決定した。新工場は,1968年(昭和43年)1月に完成し,当社竹松工場として稼動を開始した。続いて,第2次工事として,現像剤部門・研究部門・倉庫その他の建設に着工,1970年(昭和45年)3月にしゅん工した。これによって,竹松工場は,ゼロックス複写機に用いられるドラム・トナーなど,ゼロックスの消耗品生産の総合工場となった。
この間,販売会社である富士ゼロックス社も拡大を続け,1970年(昭和45年)には資本金32億円,従業員2,000名を超える大企業に発展した。そして,「日本でもっとも成功した合弁事業」と賞賛されるまでになった。
しかし,ちょうどこのころから,乾式コピーの分野に新規参入する企業が相次ぎ,創立以来8年間にわたった独占時代に終わりを告げた。こうした環境の変化に直面して,市場を維持し,成長を続けていくためには,製造および技術開発部門と販売部門とを一体化して,機動的に運営していくことが必要となった。そこで,製造部門たる当社竹松工場および複写機を生産している岩槻光機株式会社(富士写真光機株式会社の子会社)を販売部門(富士ゼロックス社)に統合することになり,1971年(昭和46年)4月,当社は,竹松工場を富士ゼロックス社に譲渡した。これに伴い,竹松工場の従業員も富士ゼロックス社に移籍した。
竹松工場と岩槻光機の移管を受けた富士ゼロックス社は,製造・販売を一体化することによって,機動的・効率的経営を実現し,より大きな飛躍を遂げていった。そして,米国のゼロックス・コーポレーション,英国のランク・ゼロックス社とともに,世界のゼロックス事業網の3大拠点の一つとして,日本市場において盤石の地盤を築くとともに,東南アジア地域にもその事業を拡大していった。
1983年度には,同社は,資本金100億円,年間売上高は2,489億円の一大企業に発展し,その事業分野は,広く事務機器および関連システム分野にも急速に拡大している。
“EPM”の事業化
電子写真の研究は,ゼロックス事業への進出として結実し,富士ゼロックス株式会社という一大企業を生み出した。富士ゼロックス社の設立に伴い,当社は,エレクトロファックス方式による“フジックス”の商品化はとりやめたが,富士ゼロックス社の事業と競合しない分野で電子写真技術の応用を図っていった。
1961年(昭和36年)2月,当社に対し,新三菱重工業株式会社(現三菱重工業株式会社)神戸造船所から,甲南カメラ研究所を通じて,造船業に欠かせない罫書き(ケガキ)作業を写真的な方法で効率化できないかという相談が寄せられた。
罫書きというのは,鋼板などを加工する際に必要な図形や注意書きなどを鋼板上に書き込む作業である。従来,作業はすべて人手によっており,造船業の工程短縮のためのネックになっていた。
この相談を受けた当社は,電子写真法を応用してその可能性を追求することとした。
電子写真罫書き装置 EPM
そこで,材料(感光剤と処理剤)については当社小田原工場,機械は甲南カメラ研究所,実験は新三菱重工業神戸造船所と,三社が協力して研究を進め,1962年(昭和37年)9月,2m×2mの実験装置を完成し,電子写真による罫書き,すなわちElectro Print Markingの頭文字をとって“EPM”と命名した。
“EPM”は,暗所で電荷を与えると感光性をもつ光電導性物質(酸化亜鉛を含んだEPM感光剤)を利用して鋼板上に罫書きを行なうもので,まず,鋼板にEPM感光剤を塗布し,それをEPM装置に送り込んで帯電させ,そこに10分の1の原図を投影し,感光・粉末現像・定着して送り出すという仕組みであった。作業は押しボタン式の簡単な操作で,作業時間は2人の作業員で約10分という画期的なものであった。
その後,“EPM”を長尺大型鋼板に実用化するための問題点の解決に努め,1965年(昭和40年)8月,三菱重工業神戸造船所に4m×16mの大型EPM装置を納入し,また,同時に,日本鋼管株式会社鶴見造船所にも大型装置を納入した。
次いで,三菱重工業広島造船所から3号機を受注したのを機に,新方式の開発を進め,鋼板に感光剤を塗布する代わりに,光電導性の微粉末を帯電して鋼板上に均一に散布して露光し,そのあとで不要の粉末を吹き払って画像を形成し定着させるという方式を確立した。
この方式は,EPM感光剤の塗布乾燥工程がないので,処理時間が短縮できるうえ,光電導性の微粉末と定着剤だけですみ,しかも,光電導性微粉末は吹き払ったあと回収して再使用ができるなど,従来の方式と比べ優れた特長を有していた。この新方式の“EPM”は,1967年(昭和42年)5月に納入を完了したが,新方式の完成によって作業効率は大幅に向上し,ランニングコストも30%減少するなどの大幅な前進がみられた。
新方式の完成によって,“EPM”は,造船・重機メーカーからの発注が相次ぎ,納入先はわが国の大手造船会社をほぼ網羅するに至った。
また,“EPM”装置は,造船所の合理化の一環として海外からも注目され,1975年(昭和50年)には,台湾およびインドの造船所に納入された。
造船業の工程上のネックであった罫書き作業の効率化を実現したEPM装置の開発に対して,日本の造船業の合理化に貢献した功績を認められ,恩賜発明賞・科学技術庁長官奨励賞をはじめ,各界から多くの賞を受けた。1971年(昭和46年)11月には,当社の開発担当者杉一郎をはじめ,三菱重工業,甲南カメラ研究所の各開発担当者に対し紫綬褒章がおくられた。
鋼板マーキング装置“TM”の開発
自動鋼板マーキング装置 TM
当社は,EPMの技術を応用して,新しい用途の開発を進め,静電記録式鋼板マーキング装置“TM”を完成した。
鋼板マーキングというのは,製鉄所で連続的に生産される鋼板に,その商品の規格・寸法・製造番号・社章など必要な情報を記入する作業である。従来は,あらかじめブリキ製のステンシルで必要項目を作成し,それを組み合わせて塗料を吹きつける方法をとっていたが,この方法は,人手を要する手作業のうえに労働安全衛生上からも好ましくなく,またマーキング内容が限定されるなど,その改善が求められていた。
そこで当社は,新日本製鐵株式会社と共同で静電記録を応用した鋼板マーキング装置の開発を進め,試作機を完成,同社君津製鐵所で現場実験を行なった。
この試作機は,装置が小型で設置が容易であるうえ,豊富な情報を同時マーキングでき,高温(400℃)の鋼板にも適用できるなどの優れた性能を示した。
“TM”と名付けたこの自動鋼板マーキング装置は,同製鐵所から実用機を受注,1979年(昭和54年)に納入し,次いで翌1980年(昭和55年)には,同社八幡製鐵所にも納入した