磁気記録材料へのチャレンジ - わが国最初のビデオテープの国産化
音声記録用に利用されはじめた磁気テープについて、当社は、いち早くビデオテープの可能性に着目し、1954年(昭和29年)から研究に着手、1959年(昭和34年)、NHK技術研究所で、試作品の録画・再生テストに成功する。その後、品質の改良を重ね、1963年(昭和38年)、NHKに正式納入する。また、民間放送局にも、相次いで採用され、品質が優れていることが高く評価される。一方、磁気録音テープの研究も進め、1960年(昭和35年)、オープンリールテープを発売し、1969年(昭和44年)には、カセット時代の到来に対応して“富士カセットテープ”を発売する。この間、コンピューター用磁気テープも発売し、総合磁気記録材料メーカーとしての基盤を確立する。
放送用ビデオテープ,NHK技術研究所で録画に成功
放送用ビデオテープの試作品
1959年(昭和34年)2月5日は,当社の磁気記録材料事業にとっては歴史的な日となった。すなわち,この日,東京砧のNHK技術研究所で,初めて,当社で試作した2インチ(50.8mm)ビデオテープの録画・再生テストに成功した。
「そのころは,当社ではまだビデオテープレコーダーを持っていなかったので,テープをNHKにもっていって実験してもらいました。テープのパイロットプラントをつくるために受けた工業化試験助成金が850万円なのに,当時,NHK技術研究所にあったわが国で2台目のビデオテープレコーダー(VR-1000)は3千何百万円かのもので,ヘッドだけでも70万円もしていましたので,機械をこわしたら大変です。ビデオテープレコーダーの機械がないので,事前に再生テストをすることができず,機械をこわさないか,ちょっと不安もありました。それで,実験の前日まで,切ったり,巻いたり,箱に入れるなど,徹夜で作業し,まるで宝物でも運ぶように大切に抱きかかえて,NHKへもっていったのです。
当日,いよいよテストが開始されました。1分間ぐらい録画して巻き返し,さあ画が出るかなと,再生ボタンを押しました。果たして画が出るか出ないか,関係者たちの目は一斉に1台のテレビに注がれました。再生ボタンを押してから画が出るまで数秒あるのですが,それまでの間,画が出るか出ないか,あるいはヘッドが詰まったりしないかと,気が気ではありませんでした。次の瞬間,非常にきれいな画がパッと出てきたのです。すると,NHKの担当者もみな,一斉にオオーッというような感嘆の声をあげました。わずか数分間ではありましたが,NHKのテストパターンがテレビの画面に再現されたのです。早速,研究所長に“画が出ました”と電話で報告しました。」
ビデオテープの開発に心血を注いできた明石五郎(元常務取締役磁気記録研究所長)は,この時の模様を,このように回想している。
磁気記録材料の研究に着手
当社が,研究所において,磁気記録材料の研究に着手したのは,1954年(昭和29年)のことで,NHKがテレビの本放送を開始した翌年だった。当時のテレビ放送は,まだビデオテープが出現していないので,すべて生放送かフィルム番組で放送されていた。研究所長藤澤常務は,「音を記録している録音テープは,結局は電気信号を記録しているのであり,テレビも電気信号で画を出しているのだから,テレビ用の磁気テープができないはずはない」との確信のもとに,その研究を開始した。将来,光学録音方式の映画用サウンドフィルムが磁気録音方式に代替されていくことも予測され,また,映画用フィルム全体がビデオテープの影響を受けるのではないかとの危ぐもあり,その対策としても,磁気記録材料の開発が必要であった。
磁気を科学的に利用し,磁気記録として実用化に成功したのは,デンマークの科学者プールセン(V. Poulsen)で,彼は,1898年(明治31年),針金を使った磁気録音機を発明し,現在の磁気記録の基礎を確立した。
その後,針金に代わって鋼帯が録音体として利用されたが,しばらくして,ドイツで,プラスチックのフィルムベースに酸化鉄を塗布する現在の磁気テープのタイプのものが開発された。一方,米国では,1944年(昭和19年)ごろに,ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチュアリング社(スリーエム社)が磁気録音テープの開発に着手し,1946年(昭和21年)には,アンペックス社がテープレコーダーの開発に成功した。
日本でも,戦時中に磁気録音の研究が行なわれていたが,1950年(昭和25年)に,東京通信工業株式会社(現ソニー株式会社)が紙に磁性体を塗布した磁気録音テープを発売した。
当社の研究は,まず,磁気テープに関する資料集めや磁気録音技術のマスター,磁性体(磁性反応のある材料)の基礎的な研究などから,手探りで始められた。
磁気テープ試験塗布機
磁気記録材料の研究に着手した当時の研究室
実験室で初めて試作した酸化鉄磁性体を紙テープに塗布し,テープレコーダーにかけて録音試験を行なったところ,音量は少なかったけれども一応音が再生できたので,実験の関係者一同大喜びをした。そんなスタートであったのである。
この基礎的実験を足がかりとして,いよいよ本格的な研究に入っていった。そして,1956年(昭和31年)には,磁性体の製造について一応の見通しを得るに至った。
マグネオストライプのカタログ
(富士天然色写真株式会社)
この研究の成果は,まず,マグネオストライプ用の磁性体として実用化された。この磁性体は,現像済みの8mmフィルムに録音することができるようにフィルムのエッジに塗り付けるもので,マグネオストライプは,1958年(昭和33年)10月から富士天然色写真株式会社で実用化された。
折しも,1956年(昭和31年)には,アンペックス社が回転ヘッドを用いた放送用ビデオテープレコーダー(VTR)の実用化に成功,さらに,1959年(昭和34年)には,RCA社とアンペックス社が放送用カラーVTRを発表した。磁気テープによる画像記録の実用化は予想をはるかに上回るスピードで実現されたのであった。
そこで当社では,磁気記録テープの開発計画をさらに進めて,小田原工場にパイロットプラントを建設することとし,1958年(昭和33年),通商産業省から850万円の工業化試験補助金を受けて,それを完成した。このパイロットプラントは,かなりの規模をもったもので,ビデオテープをはじめ各種磁気記録テープ類の試作に大きな力を発揮した。
放送用ビデオテープの品質改善と製造工場の建設
1959年(昭和34年)2月,NHKで録画・再生に成功したとはいっても,まだやっと映像が再現されたというだけで,とても実用に耐えるものではなく,解決しなければならない点が数々あった。最も重要な問題は,ドロップアウト(ビデオの再生画面に,水平に白いスジなどのノイズが入る現象)をいかに減らすかということであった。このとき,きれいな空気の中でフィルムを塗る技術をはじめとして,当社が写真感光材料メーカーとして長年にわたって培ってきた技術が大いに役立った。製造工程の改善,磁性体やバインダー(磁性体とテープ,あるいは磁性体どうしをつなぎ合わせ,接着させるための素材)の改良などを進めるほか,塗布液ろ過技術・裁断技術・乾燥技術などを応用して,ドロップアウトの削減に全力を傾注した。
1961年(昭和36年)3月,従来研究所で行なっていた研究・試作業務を小田原工場に移管した。
1962年(昭和37年)には,ほぼ実用に供し得るビデオテープを製造できるようになり,同年8月,小田原工場に磁気記録テープ製造工場を建設し,本格的な製造を開始した。この工場は,パイロットプラントで確立された技術を基礎に,量産化を目指した工場であり,この工場の稼動によって磁気テープの製造能力は大幅に向上し,特に,製造上最も重要な品質の均一性という点で高い水準を保てるようになった。また,裁断機など加工設備も整備した。これに伴い,翌1963年(昭和38年)10月には,これを小田原工場磁気材料部とした。
録音テープの発売
東芝-富士フイルムサウンドテープ
富士フイルムサウンドテープ
(S-100)
富士フイルム
マグネティックサウンド
レコーディングフィルム
当社は,磁気記録テープの開発に当たって,まず,ビデオテープの商品化に最大の努力を傾注してきたが,並行して,録音テープやコンピューター用テープなどの開発も進めてきた。
当社が磁気記録材料製品として最初に商品化したのは,日本ビクター株式会社の開発した“マグナファックス”用の磁気シートである。“マグナファックス”というのは,円盤式の磁気録音機で,一般のレコード盤の代わりに,磁気円盤(マグネティックディスク)に音声を記録し,専用の磁気ヘッドで再生するもので,1959年(昭和34年)12月,これに使用する磁気シートを同社に供給した。
一方,放送局などの業務用に使われ出した録音用テープレコーダーは,その後,学校などの視聴覚教育の場で使われはじめ,また,音楽鑑賞用として個人の間にも普及していった。
当時はまだ,オープンリールのテープで,テープレコーダーと合わせて,主として電器店ルートで販売されていた。当社は,磁気録音テープを商品化したものの,電器店のルートにはなんらの足がかりも有していなかった。そこで,1960年(昭和35年)9月,電器店ルートや放送用機器などに販売力をもつ東京芝浦電気株式会社(現株式会社東芝)と製造販売および共同研究について契約を締結し,同年12月“東芝-富士フイルムサウンドテープ(S-100)”の商品名で磁気録音テープを発売した。これは,磁性体にはガンマ酸化第二鉄を,支持体にはセルローストリアセテート(TAC)べースを使った標準テープで,3号(62m巻き),5号(185m巻き),7号(370m巻き)の3種類があった。
その後,べースの厚みを薄くして巻きの長さを50%増とした“S-150”,S/N比(ある信号に雑音がどれだけ混じっているかを示す値,音が澄んで聞こえる度合いを示す)を向上させた高出力テープ“H-100”を発売し,製品ラインを強化していった。
当社の磁気録音テーブは,その優れた品質を高く評価されて各放送局に採用された。しかし,録音テープの分野では,競争が激しく販売量の増大を図ることは容易ではなかった。それを打開する意味もあって,1965年(昭和40年)9月,東京芝浦電気との契約改訂期に,録音テープについては,東京芝浦電気と競合しない取引先に対しては当社独自の販売活動も行なうことに改め,また,当社独自の商標を表示することにした。
この契約改訂に基づき,1965年(昭和40年)11月,自社ブランド製品を“富士フイルムサウンドテープ(S-100)”として販売を開始した。同時に,“富士フイルムホワイトテープ(SW-100)”も発売した。これは,諸特性は“S-100”と同じであったが,べース面にメモを筆記できるように,TACべースに酸化チタンを混入してべースを白色化したもので,録音内容の検索や編集の便を図ったものであった。
1966年(昭和41年)6月には“富士フイルムエンドレステープ”を発売し,ミュージックテープメーカーに供給した。このテープは,ループになっても走行性をそこなわないように,テープのバック側に特殊な潤滑剤を塗布したものであり,当社からは生テープを供給して,ミュージックテープメーカーやプリントメーカーで音入れを行なってユーザーに販売されたが,カーステレオやホームステレオの普及で出荷量も増大し,増産に次ぐ増産で対処した。このため,エンドレステープは,この時期,磁気テープ生産量の大半を占めたほどで,磁気テープ事業の採算向上にも大きく貢献した。
また,これより先の1960年(昭和35年)12月には,35mm幅の“富士フイルムマグネティックサウンドレコーディンクフィルム”を発売した。これは,映画用フィルムと同じ形状の磁気記録テープで,映画の音声の録音編集用として使用されるもので,かねてから国産化の要請が強かったものであり,翌1961年(昭和36年)には,16mm製品を追加発売した。
カセットテープの発売と販売体制の整備
録音テープは,当初はテープをリールに巻いたオープンリールのテープであったが,1962年(昭和37年),オランダのフィリップス社は,テープをカセットに組み込んだコンパクトカセットシステムを開発した。同社は,それを統一規格のワールドタイプとすべく,特許を無償公開した。このコンパクトカセットは,従来のオープンリールテープに比べるとはるかに小型で,取り扱いも簡単なため,極めて短期間に全世界に広がっていった。日本でも,電機メーカーや音響機器メーカーが,カセットレコーダーやラジオ付きカセットレコーダー(ラジカセ)の製造に乗り出し,カセットテープ時代が訪れた。
当社は,他社に若干遅れたが,1968年(昭和43年)4月,フィリップス社と特許使用に関する契約を締結し,カセットテープの開発に着手した。そして,まず1968年(昭和43年)6月,カセットテープ用として使用される長尺テープの製造を開始し,ミュージックテープメーカーやプリントメーカーに納入した。
富士フイルムカセットテープ
これより先,1968年(昭和43年)9月,東京芝浦電気との契約期間が満了したのを機として,カセットテープを自社ブランドで販売することとし,同じ月に設立された富士オーディオ株式会社を販売特約店として,電器店・楽器店ルートヘの販売と,エンドレステープの納入に当たらせた。
次いで,1969年(昭和44年)4月,“富士フイルムカセットテープ”を発売した。C-30(45m,30分用),C-60(90m,60分用)の2種類で,支持体にはポリエチレンテレフタレート(PET)べースを使用した。
翌1970年(昭和45年)8月には,販売力の強化のため,販売特約店富士オーディオ株式会社に資本参加し(資本金1,000万円に増資),関西にも同社の営業所を開設した。翌9月には,当社の営業部門として磁気材料部を新設して,販売体制の構築を図った。
放送用ビデオテープの伸長
東芝-富士フイルム
放送用ビデオテープH700
一方,放送用ビデオテープの分野では,1963年(昭和38年)4月,当社は,長い間待ち望んでいた“東芝-富士フイルム放送用ビデオテープ”を発売し,NHKへの正式納入を開始した。録音テープの販売で提携関係にある東京芝浦電気を通じて販売することとした。
1964年(昭和39年)には,民間放送連盟の承認を受け,各テレビ局への納入を開始した。この年には,東京オリンピックの開催と相まって,放送用ビデオテープの需要全体も増大したが,当社では,製造工程の改善などによって得率の向上を図り,需要増に応えた。当社品は,その品質が優れていることが評価されて,それまで独占状態にあった輸入品を圧倒し,放送局におけるビデオテープのシェアを急速に伸ばしていった。
このころから,テレビ局のカラー放送が増加してきたが,1967年(昭和42年)8月には,解像力,表面性,S/N比を高めたカラー放送用ハイバンド“H700”を発売し,その高性能と品質の均一性により,高いシェアを占めるに至った。
家庭用ビデオテープの台頭
放送用として実用化されたビデオテープは,工業用・業務用の分野にも普及するようになった。さらに,1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて,1/2インチ(12.7mm)幅の家庭用ヘリカルスキャン(回転ヘッドの周りをテープが斜めに走行する記録方式)VTRがソニー,次いで松下電器産業,日本ビクターで開発された。
当社は,主として松下電器産業のVTR開発部門とコンタクトし,試作テープを提供,評価を受けて,開発を進め,1966年(昭和41年)には松下電器産業にテープを納入,次いで日本ビクター,東京芝浦電気,三洋電機などと,自社でテープを生産しているソニー以外のほとんどすべてのVTRメーカーにテープを納入するに至った。
しかし,この時期には,まだVTRは本格的な需要期に入らず,テープの型式も各社ごとに異なり,後に,VHS方式やべータ方式のビデオカセット式VTRが,1977年(昭和52年)ごろに立ち上がるまでは,需要は緩慢な伸びで推移した。
コンピューター用磁気テープの開発
富士フイルムメモリーテープ
コンピューターには,外部記憶装置として磁気テープ(コンピューター用テープ)ないし磁気ディスクが用いられるが,コンピューターが普及しはじめた1960年代当初,日本国内にはコンピューター用磁気テープを製造できるメーカーがなく,海外メーカーの製品が使用されていた。そこで,当社は,コンピューター用磁気テープの国産化を目指して,その開発に着手した。
コンピューター用磁気テープは,感度やS/N比よりもドロップアウトが少なく,丈夫で走行性に優れていることが第一条件である。当社は,ビデオテープの開発で培われた技術を活用して,短時日のうちにその開発に成功し,1965年(昭和40年)11月,“富士フイルムメモリーテープ”を発売した。コンピューター用テープにはほんのわずかの欠陥も許されないので,全長を完全検査のうえ出荷したが,優れた製造技術と品質に対する厳重なチェックによって,ユーザーの信頼をかちとり,外国製品を次第に駆逐していった。
生産体制の拡充
磁気材料工場 1971年(昭和46年)
当社は,このようにして磁気記録材料製品の販売伸長を図った結果,サウンドテープ・エンドレステープおよびビデオテープなどが増加の一途をたどり,生産能力に不足をきたしてきたので,1968年(昭和43年)9月,増設計画に着手した。しかし,需要がさらに大幅に増大する見通しから,途中でこの計画を拡大修正して工事を進め,1971年(昭和46年)1月に完成,本稼動を開始した。
増設した塗布機は,従来の塗布機と比較して,倍幅・倍スピードと約4倍の塗布能力を有するもので,これによって,急増する需要に対応し,当社の磁気記録材料事業はさらに大きく飛躍していくこととなった。