印画紙,カラーペーパーの一貫生産 - 富士宮工場の建設
原紙から印画紙までの一貫生産は、当社創立時からの念願である。そのため、すでに戦前において、その製造のために、今泉工場を設立するが、戦時経済体制のもとでバライタ紙の製造は許されず、他社からの供給を仰ぐ。戦後になって、その悲願達成を目指して研究試作を進め、1963年(昭和38年)、富士宮工場を建設し、バライタ紙とその原紙の製造を開始、印画紙の一貫生産を実現する。また、カラー印画紙用バライタ紙の研究を進め、その自給化を達成する。この間、今泉工場は、高級印刷用紙PHOや写真フィルムの挾み紙など写真用包装材料の製造に当たるが、1968年(昭和43年)、設備を富士宮工場に移設し、その歴史に幕を閉じる。
今泉工場の発展
当社は,印画紙でも,原紙からの一貫生産を企図して,1939年(昭和14年)5月,今泉工場を設立し,写真用原紙製造のために長網抄紙機を整備した。ところが,折から戦時経済体制への移行が進み,印画紙の支持体としてのバライタ紙の製造については三菱製紙に一元化されることとなり,当社は写真用原紙の製造を断念しなければならなかった。このため,今泉工場は,軍用地図用紙の製造に転換を図り,1942年(昭和17年)5月から地図用紙の本格的製造に入った。また,並行して,ケント紙などの一般用紙の研究を進めた。その後,1944年(昭和19年)9月には,隣接の富士製紙工業株式会社今泉工場の土地,建物を買収し,円網抄紙機1機を増設した。
今泉工場全景
1968年(昭和43年)
戦後は,大蔵省印刷局の指定工場となり,地図用紙に代わって百円紙幣の用紙を製造した。原材料は印刷局から支給されたので,戦後の資材難に悩むことなく,順調に稼動を続けた。その後,紙幣用紙の発注が減少したのに伴って,一般高級洋紙の製造へ移行し,1949年(昭和24年)9月,高級用紙“PHO”の製造を開始した。商品名“PHO”は写真を意味するPhotographyから採ったものである。また,この一般紙の販売をスタートするために,1949年(昭和24年)7月,資本金100万円をもって株式会社大化洋紙店(現富士特殊紙株式会社)を設立し,当社の市販紙製品の販売総代理店とした。
以降,当社は,統計カード用紙,プラノマスターペーパー,名刺用紙,薄模造紙,証券・帳票用紙,タコグラフ記録用紙,電気絶縁紙など,当社の抄紙機の特質を生かした高級紙・特殊紙を開発,次々と特長ある製品を出していった。
この間にも,当社は,今泉工場設立の本来の目的を実現するべく,写真用の原紙の研究を進め,長網抄紙機で試験製造を重ねていた。
また,これと並行して,写真フィルムと印画紙の包装用紙についての研究も行なってきた。写真感光材料は,その特質から,包装材料,とりわけ製品と直接接触する内装材料については,ちりや異物はもちろん,フィルムや印画紙に悪影響を与える放射線などを有することは絶対避けなければならず,そのため,購入条件には厳しい制約がある。そこで,今泉工場では,これら内装材料用紙の開発を進め,1950年(昭和25年)末から,円網抄紙機を大改造して,写真感光材料との適性のある挟み紙(フィルムの写真乳剤面を保護するために,包装の際,フィルム1枚ずつの間に挿入する紙)の製造に成功,1952年(昭和27年),足柄工場で使用されはじめた。これを契機として,以降,各種の遮光紙と挟み紙を次々と足柄工場に向けて製造し,当社写真感光材料の品質の向上・安定化に大きく貢献した。
なお,この写真用の原紙や内装用紙の製造の技術は,同時に生産している市販用紙の品質向上にも大きく役立った。PHOの地合い(繊維の分散している状態)の良さは,写真用原紙の技術が入っているからであり,面の平滑性や不純物が混入していないことなど,これらの写真用包装用紙の製造技術と生産管理の考え方が大きく生かされている。
バライタ紙自家生産の企画
写真需要の伸びに伴って,当社の印画紙の生産量は大きく伸長したが,戦後,新たに三菱製紙が印画紙の生産を開始したことも加わって,市場における印画紙の販売競争は,ますます激しくなってきた。激しい競争の中で印画紙事業の拡大を図るためには,コストの引き下げが不可欠の課題であり,このためには,主原料たるバライタ紙のコストをいかにするかが問題であった。また,他社製品に対して特色のある印画紙を生み出すためには,どうしても当社の写真乳剤に合致した特色のあるバライタ紙が必要であった。
この課題を解決するために,創業当初からの念願であったバライタ紙の自家生産の問題が大きくクローズアップされてきた。
1960年代に入って,“クイックシステム”を商品化するなど事務用印画紙の分野にも進出し,数量的にも,写真用原紙の生産工場を建設しても生産単位になる見通しがついたので,当社は,バライタ紙およびその原紙の製造工場建設の問題の具体的検討を始めた。
今泉工場では,従来から続けてきた原紙の試作研究を,より一層精力的に推進した。その原紙に硫酸バリウム層を塗布してバライタ紙とする研究は,足柄工場で担当した。それとともに,新工場の建設用地の選定を開始した。
富士宮に進出を決定
印画紙用バライタ紙とその原紙製造工場の建設地としては,既存の今泉工場に建設の余地がないため,新たに工場用地を探し求める必要があった。工場の建設地は,印画紙の生産とのつながりから,できるかぎり足柄工場に近いところが望まれた。しかし,バライタ紙用原紙の抄造には大量の水を必要とするうえに,当時,足柄工場は,カラー工場をはじめとする各種工場の建設で敷地がほぼ埋まりつくし,いずれは足柄工場に匹敵する総合工場の建設が日程にのぼってくることが考えられていたために,広く全国にその適地を求めることとした。
“豊富な良質の水”と“きれいな空気” - 新工場に求められる条件は,足柄工場の建設のときに求められた条件と同じであった。しかし,1930年代と比べると,1960年代後半の日本は工業化が進み,求められる条件にかなう工場用地を探すことははるかに困難になっていた。いくつかの候補地を選定し,現地調査を実施した結果,最終的に,静岡県富士宮と四国吉野川流域の二つに絞られた。
富士宮工場建設予定地
富士宮市との工場誘致契約調印式
当社は,これら二つの候補地について慎重に比較検討を行ない,1961年(昭和36年)秋,富士宮への進出を決定した。四国吉野川流域は,水量や工場環境の点では申し分なかったが,足柄工場と離れすぎており,製品の輸送コストも高くなることが難点であった。
富士宮は,静岡県の東部,身延線の沿線,麗峰富士山の南西山ろくに広がり,富士登山口として開けた市である。当時は大きな工場もなく,富士宮市は,工場誘致による工業都市への脱皮に熱意を燃やしていた。そこに,当社が水と土地とを求めて現われたのである。こうした市当局の要請と当社の新工場建設の条件とが合致して,静岡県当局も積極的に協力,富士宮への進出が決定したのであった。
富士宮市との工場誘致契約は,同年12月締結された。この契約に基づき,当社は,市当局をはじめ多くの地主の積極的な協力を受けて,富士宮市大中里地区に,工場用地として約33万m2(約10万坪)を,厚生施設用地として約10万m2(約3万坪)の土地を取得した。また,工場用水の水利権の取得および取水使用についても,誘致契約に明記された。
大中里地区は,富士宮市の北西部,潤井川のほとりに位置し,背後には小高い山が連なっていた。一見,足柄工場とそっくりの地形の工場建設予定地には,水田のほか,多量に湧き出る地下水を利用して養鱒池が散在し,製紙工業や写真感光材料工業には欠かせない水が豊富に存在することを示していた。
バライタ紙製造工場の建設
技術指導するヴェンツル博士
完成後の抄紙工場
用地の買収交渉と並行して,1961年(昭和36年)3月には,専務取締役竹内喜三郎以下関係者が渡欧し,抄紙機やバライタ塗布機,スーパーカレンダーやエンボシングカレンダーなどの諸機械を購入した。その時,ヴェンツル博士(Dr. Wenzl)とコンサルタント契約を締結して,以後,バライタ紙の製造に関して博士のアドバイスを受けることになった。
富士宮工場の第1期工事としては,バライタ紙の製造工場と,その原紙の抄紙工場を建設することとし,1962年(昭和37年)12月,起工式を挙行した。
起工式のあと,工場の建設工事は急ピッチで進められ,翌1963年(昭和38年)秋には,バライタ紙製造工場,抄紙工場,実験研究棟,その他の付属建物が次々と完成した。
1963年(昭和38年)10月,富士宮工場が正式に発足,翌1964年(昭和39年)4月,まず,バライタ紙製造工場が稼動を開始し,翌5月には原紙抄造工場も本稼動に入った。
バライタ紙の生産は,薄手光沢印画紙用のバライタ紙の製造から開始し,以降,中厚手品・厚手品と次第に品種を広げ,また,面種も,光沢面に次いで,微粒面・絹目と,逐次増加していった。原紙抄造工場では,事務用印画紙用の原紙(ドキュメント紙)の製造からスタートした。バライタ紙用原紙の製造は難しく,稼動当初の試作は難航した。そのため,当初は原紙を輸入し,輸入厚紙にバライタ塗布を行なったこともあったが,1964年(昭和39年)半ばごろからは,バライタ紙用原紙の製造もできるようになり,ここに多年の念願であったバライタ紙から黒白印画紙までの一貫生産体制が確立した。
カラーペーパー用バライタ紙の開発
富士宮工場で黒白写真用のバライタ紙の製造を始めたころ,写真業界では黒白写真の時代からカラー写真の時代へと大きく動きはじめていた。しかし,カラープリント用の印画紙,すなわちカラーぺーパーは,現像処理に数多くの薬品を使用し,また,黒白印画紙よりも現像処理時間が長いため,紙の繊維が薬品におかされないような特殊なバライタ紙を必要とする。当社は,カラーぺーパーを生産するために,バライタ紙を輸入して,足柄工場で写真乳剤を塗布して製品化し,市場に供給した。
しかし,輸入品は高価なうえに,カラー写真の普及に伴ってカラーぺーパー用バライタ紙の使用量の増加が予測されたので,当社は,その国産化を目指して研究に着手した。
カラーぺーパー用バライタ紙の研究は難航した。富士宮工場で問題点を一つ一つ解決して,ほぼ完成段階と考える試作品を作成し,これを足柄工場に送付して試験すると,また新たな問題点が発生する。こういうことを何度か繰り返し,両工場のスタッフが総力をあげて改善に努力した。その結果,ようやく外国品に勝るとも劣らないものをつくり出すことができるようになり,1968年(昭和43年)9月から,カラーぺーパー用バライタ紙の製造を開始し,足柄工場で使用されはじめた。これによって,カラーぺーパーでも原紙から印画紙まで一貫自社生産体制が確立した。
今泉工場の富士宮工場への移設
円網抄紙機
(富士宮工場に移設)
長網抄紙機
(富士宮工場に移設)
富士宮工場におけるバライタ紙の製造開始後も,今泉工場は従来どおりの稼動を続け“PHO”をはじめとする高級紙や特殊紙,あるいは写真フィルムの挟み紙や写真用包装紙などの製造を行なってきた。とりわけ,“PHO”は,美術印刷用やカレンダー用など高級印刷用紙として多用された。
しかし,今泉工場は,敷地も狭く増設も不可能なうえに,付近の都市化が進んで用水の確保が難しいなど,事業を継続していくうえでの悪条件が積み重なってきた。
一方,富士宮工場では,バライタ紙の生産が軌道に乗り,また,1965年(昭和40年)からは,“感圧紙”の生産を開始するなど,製紙工場としての体制が着々と整備されていった。
そこで当社は,製紙部門を富士宮工場に集中して生産の効率化を図ることとし,1968年(昭和43年)10月,今泉工場を閉鎖した。
今泉工場の長網抄紙機,円網抄紙機などの主要施設は富士宮工場に移設し,工場要員も,退職を希望した一部の人を除いて全員が富士宮工場に移り,新しい出発をした。かくして,今泉工場は,1939年(昭和14年)に設立されて以来,30年近くの生涯に幕を閉じた。
第1期工事の完成した富士宮工場 1965年(昭和40年)