総合写真感光材料メーカーとして国内トップに
戦後、いち早く企業の再建整備をなし遂げた当社は、1950年代に入って、大きく成長・発展を遂げていく。1960年度(昭和35年度)には、売上高180億円を達成、次代の発展の基礎を固める。活発な設備投資を行ない、その資金調達のために数次にわたる増資と社債の発行を実施、1956年(昭和31年)には、資本金は25億円となる。業容の拡大に伴い、従業員数も増大する。当社では、労働条件の向上や従業員の福利厚生の充実を図り、提案制度の導入、社内報の発行、永年勤続者表彰制度の実施などを進める。この間、労使関係は次第に厳しさを増す。他方で、次の時代に備えて、事業の多角化を図るための調査・研究を進める。
資本金25億円、売上高180億円に
戦後再出発してから1950年代を通して、当社はめざましい成長を遂げた。占領下での映画用フィルムとX-レイフィルムの生産再開に始まって、“ネオパンSS”やカラーフィルムの開発・カメラ事業への進出など、数多くの展開をなし遂げ、1960年(昭和35年)を迎える時点では、総合写真感光材料メーカーとして、わが国市場で圧倒的な地位を占めるまでに至った。
増資目論見書
当社の再建整備計画が認可され、企業経営が正常な状態に復した後の1950年度(昭和25年度)から1960年度(昭和35年度)まで10年間で、売上高は7.8倍になり、1960年度(昭和35年度)の売上高は181億円に達した。
売上高の増加に伴って、利益額も増加してきた。しかし、市場での販売競争が激しくなった1950年代後半に入ると、販売諸経費の著しい増加や販売価格の引き下げによって、利益率の低下を余儀なくされた。
同期間における生産数量も、10年間で、フィルムは約5倍、印画紙は約3.8倍といずれも大きく伸長した。
このような事業の伸長を遂げるために、当社は、多くの設備投資を行ない、それによって生産能力の拡大と技術の向上・コストの低減を図った。これらの設備投資資金を調達するために、当社は、数次にわたって増資を実施した。戦後、1940年代後半から1950年代にかけての増資をまとめると、下表のようになる。
しかし、膨大な設備投資資金を増資だけでまかなうことは到底不可能であった。そこで、1951年(昭和26年)7月、第1回物上担保付い号社債、額面総額5,000万円を発行したのを最初として、ほぼ毎年のように社債を発行し、長期設備資金に充当した。社債の発行は、1960年度(昭和35年度)末まで合計10回、総額12億8,000万円にのぼった。
この間、金融機関からの借入額も増加し、1950年度(昭和25年度)末に2億円であったものが、1960年度(昭和35年度)末には、借入金残高は、社債発行残高を含めて30億円近くに達した。
年月 | 増資額 | 新資本金 | 増資の主な目的 |
---|---|---|---|
1948年10月 | 3,000万円 | 5,500万円 | 資本構成是正 |
1949年7月 | 6,500万円 | 1億2,000万円 | カラーフィルムの量産化研究およびフィルムベース生産設備の改良 |
1950年2月 | 1億3,000万円 | 2億5,000万円 | カラーフィルム生産設備およびカラーフィルム現像所の建設 |
1952年3月 | 2億5,000万円 | 5億円 | 現有設備の合理化 |
1953年11月 | 5億円 | 10億円 | 第3フィルム工場の建設 |
1955年5月 | 10億円 | 20億円 | 第3フィルム工場の設備増強および研究所の増設 |
1956年12月 | 5億円 | 25億円 | 再評価積立金の一部資本金組み入れ |
従業員数の増大と従業員福祉の向上
第7アパート(足柄工場独身者用)
1956年(昭和31年)
向田アパート(足柄工場世帯用)
1959年(昭和34年)
生産数量を急速に増大するためには、膨大な設備投資と同時に大量の人員採用を不可欠とした。1945年(昭和20年)10月、約1,400名余の従業員で再出発をした当社は、1953年(昭和28年)3月には、従業員総数は2,991名と、7年半の期間で倍増した。そして、その3年後の1956年(昭和31年)3月には、足柄工場地区だけでも3,700名近く、全社では4,700名を数えるに至った。これは、足柄工場で、第3フィルム工場やLX加工工場が稼働を開始し、この3年間に毎年500人前後の増員が必要であったためである。
これらの従業員の急増に対処するため、当社は、社宅や社員アパート・独身寮の建設を進める一方、1950年(昭和25年)7月からは住宅融資制度を開始し、福利厚生の充実を図った。
また、1952年(昭和27年)には、足柄工場で提案制度を導入した。作業方法の改善などについて、従業員からアイデアを募集し、優れた提案を表彰するもので、生産効率をあげるとともに、製造現場において、作業者に作業対象に対する積極的な関心を増大させ、職場士気の高揚に貢献した。
その後、この制度は、1954年(昭和29年)に今泉工場に、1956年(昭和31年)には小田原工場に、それぞれ導入された。そして、1958年(昭和33年)からは、全社的な制度とした。
一方、人員の増加に伴い、社内のコミュニケーションが重要な問題となってきた。そこで、社内のコミュニケーションの良化を目指し、1953年(昭和28年)9月、社内報「富士フイルム」を発刊した。社内報の発行に際して、春木社長は次のように述べている。
「今回、このような社内報を発刊し、お互いの生活基盤である富士の現状をともどもに眺め、工場の方は今まであまり御存じなかったかと思われる厳しい販売競争に新たな認識を持ち、営業所の方は“良い富士の製品”が出来上がるまでの工場の苦労に思いをいたして、ある時には喜びを分ち合い、またある時には励まし合いたいと思います。」
社内報「富士フイルム」は、その後、次第に内容を充実し、原則として毎月1回発行し、社内のコミュニケーションに大きな役割を果たした。
また、1956年(昭和31年)9月からは、実働時間を1日につき10分間短縮して、1日7時間、1週42時間を原則とした。
提案制度のポスター
社内報「富士フイルム」創刊号
労使紛争の解決
戦後、労働組合の誕生以来、当社は、労働条件の改善要求や給与の引き上げ、あるいは夏季・冬季の一時金要求に対し誠意をもって応えてきた。給与体系も逐次整備し、1949年(昭和24年)6月以降は、賞与の支給も定期的に行なうようにするなど、従業員の待遇改善に努めてきた。このような努力は、労働組合からも認められ、給与の改定や賞与の支給交渉についても、円満に妥結をしてきた。
ところが、1953年(昭和28年)6月の夏季賞与の交渉と1955年(昭和30年)2月の昇給をめぐる交渉は難航し、神奈川県地方労働委員会のあっ旋によって解決をみるに至った。
労使紛争のあっ旋成立に謝辞を述べる春木社長
1955年(昭和30年)2月
1955年(昭和30年)10月、労働組合は、合成化学産業労働組合連合(合化労連)に加盟した。同年12月には労働協約が改訂され、それまで経営協議会で決定していた給与を団体交渉で決定することとした。同時に、従業員に対する給与は、労働協約上「賃金」と書き改められた。
このころから労使の交渉は次第に複雑さを増し、交渉が行き詰まることも多くなった。しかし、労使双方のねばり強い交渉によって一致点を見出し、円満な妥結を図ってきた。
しかし、1957年(昭和32年)11月、年末賞与をめぐる労使交渉が決裂し、労働組合は、結成以来初めてストライキに突入した。翌1958年(昭和33年)の夏季賞与の交渉でも交渉が決裂し、足柄工場の時限ストライキなどが実施された。その後、1959年(昭和34年)末まで、数次にわたって合理化反対闘争が繰り広げられた。
労使の対立は、1960年(昭和35年)の賃金改訂交渉において頂点に達し、1か月におよぶ長期ストライキに発展した。
一方では三井三池の労使紛争、もう一方では日米安全保障条約の改定反対闘争という中で迎えたこの年の賃金改訂交渉は、3月25日、交渉が決裂、労働組合はストライキに突入した。その後、労働組合は、全面ストから部分ストに戦術を変更したが、中枢部分のストを継続したために、全面ストと変わらない状態が続いた。このため、会社は、4月18日、ロックアウトを宣告し、紛争はいつ解決がつくのかわからない状況になった。
紛争の長期化に伴い、映画用フィルムの在庫が払底し、供給責任を果たせない恐れがでてきた。このため、当社は、長瀬産業の協力を得て、当社が航空運賃を負担して、海外メーカーの映画用カラーポジフィルムを緊急輸入し、この事態を切り抜けた。当社がこのようにしてまでも供給責任を果たしたことは、関係各界から好感をもって迎えられた。
一時は泥沼化するかに見えた争議も、その後、労使双方の歩み寄りによって解決へと動き出し、4月27日8時10分、ストライキは終結し、正常化した。
この1か月に及んだ長期ストが労使双方に与えたダメージは少なくなかった。しかし、労使の対立関係は、依然として強まりこそすれ、弱まることはなかった。
創立20周年を迎える
初代社長淺野修一の社葬
当社初代社長淺野修一は、1943年(昭和18年)11月、社長を辞任し、その後、静養に努めていたが、1950年(昭和25年)5月4日、帰らぬ人となった。享年63歳であった。当社は、同月15日、聖イグナチオ教会で社葬を執り行ない、この偉大な先達の不滅の功績を回顧し、その遺徳をしのんだ。
1954年(昭和29年)1月20日、創立20周年を迎え、足柄工場において、記念式典を催した。式典には、当社創立の恩人である森田茂吉元相談役(元大日本セルロイド取締役会長)も列席し、創立当時の思い出を語るとともに、大きく成長を遂げた当社に祝福の辞を述べた。また、この創立20周年を機に、永年勤続従業員の表彰制度を設けた。
1959年(昭和34年)11月には、社長春木榮は、国産技術の確立に寄与した功績で藍綬褒章を受章した。
1960年(昭和35年)には、創立以来25年間の歴史をまとめた社史「創業25年の歩み」を刊行した。
創立20周年記念式典
社史「創業25年の歩み」
多角化への布石
戦後の生産再開から1960年(昭和35年)にかけて、幾多の曲折を経ながらも、当社は総合写真感光材料メーカーとして大きく成長、新たに進出した光学機器部門でも確固たる基盤を築くなど、次代への発展の基礎を固めてきた。その一方で、より大きく成長・発展を図るために、新しい分野についての調査・研究を進め、事業多角化の布石を打っていった。
多角化といっても、全く異質な事業に進出するということではなく、蓄積された技術を活用し、既存の事業の隣接分野に進出するということである。
その第一は、写真関連分野での用途の開発・拡大である。印刷用写真製版をはじめ、マイクロ写真・事務用複写などの分野がそれであり、これらの分野では、1950年代から進出を開始し、次代の基礎を築いていった。
第二は、非銀塩写真の分野である。すなわち、従来からのハロゲン化銀を主体とする銀塩感光材料に代わる新しい写真法についての調査・研究である。そして、その一環として、電子写真の研究に取り組んでいった。この研究は、のちにゼロックス事業として結実していくことになる。
第三は、写真以外の新規分野である。磁気記録材料・ノーカーボン紙(感圧紙)およびオフセット印刷材料(PS版)の三つの分野である。これらの三つの分野は、いずれも情報を記録するという観点から、既存事業と密接な関連性を有するもので、これらの研究は、次の年代に入って大きく結実し、それぞれ当社経営を支える大きな柱として成長、発展を遂げていく。