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カメラ・光学機器事業基盤の確立

 

当社は、戦後、いったん光学ガラス部門を縮小するが、新たに各種レンズの商品化と、カメラ部門への進出を企図する。希元素を原料とする新種光学ガラスの開発に挑み、それに成功、世界に誇る明るいレンズ“フジノン”を開発、カメラ用をはじめ各種用途のレンズを逐次商品化する。この間、1948年(昭和23年)には、6cm×6cm判のスプリングカメラ“フジカシックス”を発売、念願のカメラ市場に進出する。以後、高級二眼レフ“フジカフレックスオートマット”・入門機“フジペット”・35mmカメラ“フジカ35”などを次々と発売、カメラメーカーとしての地位を不動のものとする。この間、引伸機、双眼鏡、スライド映写機などの関連商品も発売し、光学機器分野でも事業基盤を確立する。

光学ガラス部門の再出発

終戦を迎えて、軍需用の光学ガラスの受注は皆無となり、加えて、市場には軍放出の光学ガラスがあふれた。小田原工場の光学ガラス部門は、今後の見通しが全く立たないまま、設備・人員を縮小し、光学硝子研究部も吸収、光学ガラス以外の商品化も考えて、窯業部と改称して再出発を図った。

しかし、1948年(昭和23年)に入ると、わが国の双眼鏡やカメラの輸出もようやく活発になり、市場の軍放出のガラスも使い尽くされ、以降の需要見通しも明るくなってきた。

この間、当社は、カメラレンズ用として必要な重バリウムクラウン系(SKタイプ)・バリウムフリント系(BaFタイプ)など、当時としては高屈折率ガラスの試験溶融を行ないつつ、工程の改善、品質の改良を進めた。

また、レンズやプリズムの素材にプレス成形品の使用が一般化してきたので、いち早くプレス成形品の量産化を行ない、自社で使用する以外に各カメラメーカーやレンズメーカーに販売した。

新種光学ガラスの開発

[写真]白金るつぼによる光学ガラス溶融作業

白金るつぼによる光学ガラス溶融作業

[写真]レンズ研磨作業

レンズ研磨作業

カメラが輸出品として脚光を浴びるにつれて、より優れた高性能レンズを製作するために、より屈折率の高いものや特殊の屈折率をもった新種光学ガラスの開発が要望されはじめた。しかし、これらの新種光学ガラスには、原料として酸化ランタン・酸化トリウムなど高価な希土類元素やふっ素化合物なども使用され、溶融中にるつぼを浸食するとともに、わずかな温度差でもガラスの粘性が水状からあめ状にと極端に変化したり、また、原料が急激に揮発してガラスが均質化しにくいなど製造化には多くの困難を伴っていた。

当社は、1951年(昭和26年)初頭から少容量のるつぼでランタン系硝種の新種光学ガラスの試験溶融に成功していたが、量産化までには間があった。

高価な希土類元素を原料とし、しかも製造し難い新種光学ガラスの工業化試験は、一企業だけで容易に行なえることではないので、1951年(昭和26年)、通商産業省から工業化試験補助金の交付を受けて、日本光学工業・小原光学硝子製造所・千代田光学精工(現ミノルタカメラ株式会社)・小西六写真工業と当社の5社が共同で、工業化試験を開始した。

当社は、小田原工場において、1952年(昭和27年)2月に、ふっ素系の特殊フリントガラス(F16)の溶融を担当し、同年7月には高屈折率の重バリウムフリントガラス(BaSF8)を溶融、いずれも成功した。

この試験溶融は、関係官庁・関係各社立会いのもとで行なわれ、各社の技術者が夜を徹して溶融作業の推移を見守り、議論をたたかわせ、来るべき新種光学ガラス時代のために協力し合い、ついにその工業化に成功したのであった。

後に、1954年(昭和29年)1月、当社を含む5社は、この開発に対して通商産業大臣賞を受賞した。

当社は、その後も引き続き新種光学ガラスの開発を進め、1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけて、大型白金るつぼによるランタン系ガラスの量産化やそのプレス成形化に成功した。

これらの新種光学ガラスの開発によって、従来、光学ガラスによる制限を受けていたレンズの設計と製作が極めて自由になり、優秀なレンズの製作が可能となった。わが国光学産業の発展に大きく貢献した一大成果であったといえよう。

当社初のカメラ“フジカシックス”の誕生

[写真]フジカシックスIA

フジカシックスIA

当社は、戦後、かねて宿願としていたカメラ部門への進出を企図し、小田原工場鏡玉部において、レンズの生産と並行してカメラ生産の計画を進めた。

レンズの設計・試作は順調に進んだが、外注に依存したシャッターとボディーの製作は遅れがちであった。

一方、富士写真光機は、戦後、双眼鏡の生産を再開し、次いで引伸機の生産を進めていたが、小田原工場でのカメラの生産が遅れている現状から、富士写真光機でもカメラの生産を開始、両社で並行生産をすることとした。そして、1948年(昭和23年)4月、ブローニー判ロールフィルムを使用する画面サイズ6cm×6cmのスプリングカメラ“フジカシックスIA”を発売した。戦時期に航空写真機などを製作した実績はあったものの光学機器事業へ進出を決意してから10年目にして、待望のカメラの誕生で、感慨深いものがあった。

この“フジカシックスIA”は、レクターF4.5 75mmのレンズを装備していたが、その後、1956年(昭和31年)までの間に、レンズの改良(F3.5 75mmレンズを装備)・シャッターの改良・シンクロ接点の付加・セミ判兼用品や距離計連動品の発売など、フジカシックスの各種の機種を整備し、当社カメラ事業創業の歴史を飾った。

これらのカメラの生産とレンズの開発を効率的に進めるため、1950年(昭和25年)3月、カメラの生産を富士写真光機に集約し、小田原工場鏡玉部はレンズの研究と試作生産に専念する体制に改めた。

世界に誇るレンズ“フジノン”の開発

[写真]フジノンレンズ群

フジノンレンズ群

レンズの製作については、当社は、戦時中の航空写真用レンズの設計・試作の経験から自信があり、必要な光学ガラスを自ら溶融できる強みもあったので、戦後の生産再開とともに直ちに各種レンズの商品化を企図した。

そして、フジカシックス用レンズの開発に引き続き、1949年(昭和24年)5月、35mmカメラ用レンズ(クリスターF2 50mm)を発売したのを最初として、翌1950年(昭和25年)には、映画館の映写用レンズ(レクターP)・引伸し用レンズ(レクターE)・映画撮影用レンズ(シネクリスター)、そして、1951年(昭和26年)には、営業写真館の写場用レンズ(レクター)など、次々と各分野のレンズを発売した。

1954年(昭和29年)11月には、当社が量産化したランタン系の新種光学ガラスを活用し、ライカマウントの標準レンズ“フジノンF1.2 50mm”を発売した。当時の一般用フィルムは、現在と比べると感度が低かったので、手振れの少ないよい写真を撮るために、光量の多い明るいレンズの開発が要望されていた。“フジノンF1.2 50mm”は、この要望に応えて商品化したもので、新種光学ガラスを含む8枚の単体レンズで構成されている。周辺光量を多くするため、前玉は52mmの大口径としたもので、撮られた画像はピントがシャープで、収差によるフレアーが極めて少なく、国内のみならず海外からも絶賛を博した。米国の写真雑誌「モダンフォトグラフィ」誌1955年(昭和30年)5月号には、「35mmカメラ用レンズとして、かつてない最高速のレンズ」(Fujinon was one of the best high-speed lenses for 35mm work they had ever seen)として称賛された。

次いで、1954年(昭和29年)12月に画角が63度の広角レンズ(フジノンF2 35mm)を、1956年(昭和31年)10月に大口径望遠レンズ(フジノンF2 100mm)をそれぞれ発売したのをはじめ、各種レンズを試作・発表した。また、同年には、非球面レンズ(レンズの球面を一部変形させ、焦点外バックの部分の描写を引き締まるようにしたもの)を発表した。これらの各種のレンズの開発は、当社のレンズ設計水準の高さを示すものとして内外から高い評価を得た。

その後、光学機器製品ならびにレンズ群の整備が進むにつれ、より優秀なカメラや光学機器を製作するには、レンズ部門の生産もカメラの生産部門に統合すべきであると考え、1957年(昭和32年)3月、小田原工場鏡玉部は、設備一切とその技術を富士写真光機に移設した。これによって、当社における17年間のレンズの研究・生産の歴史はその幕を閉じた。その際、従業員は、一部富士写真光機に移籍し、残りは、他部門に配置転換した。

国産第1号電子計算機“FUJIC”の完成

[写真]国立科学博物館(東京上野)に展示されている電子計算機“FUJIC”

国立科学博物館(東京上野)に展示されている
電子計算機“FUJIC”

カメラのレンズには、明るく、シャープな画像を得るために、屈折率の異なる何枚かの単体のレンズが組み合わせて用いられる。これらの組み合わせを決め、最適のレンズを設計するためには、複雑な計算を必要とし、高級レンズの設計には専門家でもその計算に数か月を要するほどであった。この計算を迅速かつ正確に行なうために、当社は、電子計算機を活用することを計画し、1949年(昭和24年)、その設計に着手した。試行錯誤を繰り返しながら開発を進め、1953年(昭和28年)、組み立てを開始した。長さ4m・高さ2mのパネルの中に、計算装置・記憶装置・制御装置が1,700本の真空管と5,000mの配線でつながれ、使用部品は実に2万個を数えた。1956年(昭和31年)7月に完成し、“FUJIC”と命名した。

“FUJIC”は、当社のレンズ計算に貢献するとともに、気象庁や各大学からの計算依頼にも応え、国産電子計算機の第1号として注目を浴びた。

しかし、“FUJIC”は真空管式なので、その寿命の点で実用上問題を残していた。このため1957年(昭和32年)、レンズ部門を富士写真光機に移設した際、“FUJIC”を研究用として早稲田大学に寄贈した。現在は、わが国科学史上の重要な記念として東京上野の科学博物館に展示され、同所でコンピューターのその後の発展を静かに見守っている。

高級二眼レフ“フジカフレックスオートマット”の発売

[写真]フジカフレックスオートマット

フジカフレックスオートマット

当社が、カメラの生産を富士写真光機に集約した1950年(昭和25年)ごろから、カメラ市場では二眼レフカメラの需要が増加してきた。当社は国産最高級機を目指して、二眼レフカメラの開発を進め、1954年(昭和29年)5月、“フジカフレックスオートマット”を発売した。

“フジカフレックスオートマット”の撮影用レンズには、明るくて解像力の優れたフジナーF2.8 83mmを装備した。撮影用レンズとファインダー用レンズを前玉同時繰り出し式にして、70cmまでの近接撮影ができるようにした。また、焦点調節とフィルム巻き上げを兼用ノブにして迅速撮影化を図るなど各種のアイデアを盛り込んだ。“フジカフレックスオートマット”は、当時のわが国カメラの最高技術を発揮したものと評価され、当社カメラのブランドイメージを高めた。

写真の入門機“フジペット”シリーズの誕生

[写真]フジペット

フジペット

[写真]フジペットによる撮影会

フジペットによる撮影会

当社は、“フジカシックス”の商品化で、カメラ市場に参入したが、写真感光材料とカメラを生産する総合メーカーとして、カメラの開発上の最も大きな課題は、写真需要の拡大ということである。この目的に立って、当社は、これまでカメラに触れたことのない人でも、手に入れたその時から気軽に写真撮影を楽しめるカメラの開発を計画した。設計は株式会社甲南カメラ研究所に、デザインは東京芸術大学田中芳郎氏に、それぞれ協力を依頼した。そして、写真の入門機ともいえる6cm×6cm判カメラ“フジペット”を開発し、1957年(昭和32年)9月、発売した。

“フジペット”の標準小売価格は1,950円、ボディーの色は、黒のほかに、赤・青・黄・緑・グレーの各色をそろえ、6cm×6cm判のカメラでありながら、スタイルは、当時流行の兆しをみせはじめた35mmカメラ風のプラスチック製で、左右のレバーを1、2の順に押すだけで手軽に撮影することができた。

この“フジペット”は、写真の入門機として、期待どおり、小学校高学年を中心とする年少者層、さらに初めてカメラを手にした女性と、幅広い各層に使用され、爆発的な人気を呼んだ。

その後、1959年(昭和34年)6月には、フジペットシリーズとして、35mmカメラ“フジペット35”を、1961年(昭和36年)4月には、6cm×6cm判で自動露出調節機構を付けた“フジペットEE”を発売した。

フジペットシリーズは、1957年(昭和32年)の発売開始から1963年(昭和38年)の製造打ち切りまでの7年間に、実に100万台近くを販売し、当時のカメラ販売記録を更新する一大快挙を達成したのである。

35mmカメラ“フジカ35M”の発売

[写真]フジカ35M

フジカ35M

[写真]フジカ35SE

フジカ35SE

1950年代の半ばから、35mmカメラ、とりわけレンズシャッター式カメラの需要が大きく伸びてきた。35mmカメラは、小型軽量で携帯に便利であり、レンズやフィルムの性能が向上した結果、6cm×6cm判カメラにそん色のない写真が得られるようになり、プロ写真家やアマチュア層だけでなく、広く一般アマチュアの間でも愛用者が増えつつあった。

当社は、“フジペット”の開発と並行して、35mmカメラの開発を進めてきたが、1957年(昭和32年)5月、日本国際見本市に、当社初のレンズシャッター式35mmカメラとして“フジカ35M”を出品し、同年9月から発売した。

フジノンF2.8 45mmレンズ付きで、距離系連動の機構を備え、左手でカメラを保持し、他の操作はすべて右手で行なうという操作の簡易さとスマートなデザインは、手ごろな価格と相まって、好評を博した。

翌1958年(昭和33年)12月には、絞りとシャッタースピードの組み合わせが自動的にセットされるライトバリューシステムの“フジカ35ML”を発売、さらに翌年1959年(昭和34年)3月、米国フィラデルフィアで開催されたカメラ見本市フィラデルフィアショーでは、当社初の露出計連動カメラ“フジカ35SE”を発表して話題を呼んだ。“フジカ35SE”は、レンズシャッター式カメラとしては世界で初めて1,000分の1秒付きシャッターを採用した。同年7月、まず輸出用に発売し、その年12月から国内市場へも出荷した。

引伸機、双眼鏡、スライド映写機の発売

[写真]富士引伸機B型

富士引伸機B型

[写真]双眼鏡 メイボー

双眼鏡 メイボー

[写真]バーディー1型

バーディー1型

当社はまた、カメラのほか、引伸機・双眼鏡・スライド映写機など各種光学機器製品を相次いで発売した。

当社が写真業界に対して発表した最初の光学機器製品は、戦後、ようやく写真需要が回復しはじめた1948年(昭和23年)2月に発売した“富士自動引伸機A型”であった。この引伸機は、操作性の優れた自動焦点機構が好評であり、当社の光学機器の技術を業界に認識させた。

その後、カメラの普及に伴い、アマチュア写真家の中にも引伸機による自家処理をする層が増えてきた。こうした要望に応えて、1951年(昭和26年)1月には、“富士引伸機B型”を発売した。この引伸機は、使いやすさと堅ろう性に加え、シンプルなデザインで、価格も値ごろであったため、営業写真家からアマチュアまで各方面に広く愛用された。この“B型”タイプの引伸機は、その後さらに性能の改善を図り、今日まで実に30数年にわたりロングセラーを続けている。

双眼鏡は、戦後、富士写真光機で生産を再開したが、1949年(昭和24年)1月から輸出を開始した。倍率は、6倍から12倍まで、焦点距離は32mmから50mmまでの各品種をそろえた。

双眼鏡は、そのほとんどを米国に輸出したが、国内市場に対しても出荷し、一時、当社が販売業務を担当したこともあったが、その後、双眼鏡の販売は、国内・輸出とも富士写真光機が自ら行なうこととした。

また、スライド映写機の分野にも進出した。

戦後発売した外型反転方式の35mm判カラーフィルムは、主としてスライド映写機で拡大投影して鑑賞するものであり、この関連商品としてスライド映写機の商品化を図った。

1951年(昭和26年)1月、スマートで軽量なスライド映写機“バーディー1型”を発売した。防熱ガラスでフィルムのカールを防ぎ、色収差の少ない“レクターP”レンズを装着した。

その後、1955年(昭和30年)4月、コンパクトな携帯用のスクリーン内蔵機“バーディーキット”を、さらに1958年(昭和33年)12月には、操作用のハンドルを動かすだけで20枚のスライドが順次自動的に映写できる“バーディースーパー”をそれぞれ発売した。

 
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