写真感光材料研究体制の整備
戦後、生産の再開とともに、研究活動も再開する。戦時中閉ざされていた海外の技術情報も再び入手できるようになり、商品化研究や生産技術の研究は、大きく前進していく。商品化研究では、高感度フィルムの開発と、カラーフィルムの商品化に大きな成果をあげる。戦時中から続けてきたカラーフィルムの研究については、1950年代後半にかけて、映画用内型カラーフィルムを商品化し、次いで、一般用カラーネガフィルム、カラーペーパーを商品化する。写真感光材料の研究体制を強化するため、研究所の陣容・施設を拡充する。生産技術の面でも、塗布技術、写真乳剤製造技術、加工技術のそれぞれの分野で、大きく進歩向上する。
研究の再開
終戦とともに、研究活動も一時中断したが、事業の再開に伴って、研究活動を再開した。
研究所は、主として写真感光材料の基礎的研究を任務とし、写真乳剤基礎研究部門・カラー写真研究部門・高分子研究部門のほか、写真物理研究・応用写真研究などの研究部門を有しており、戦後は、小田原分室から有機合成研究部門も統合した。
一方、写真感光材料の商品化の研究と生産技術研究は、足柄工場が担当してきた。
戦後のスタートに当たっては、まず戦時中のブランクを取り戻し、海外のトップメーカーの技術水準にいかに追いつくかということが最も大きな課題であった。
「PBレポート」の一部
そのためにまず、各種の海外技術情報の入手に努めてきたが、ドイツのアグファ社の技術が連合軍の占領調査報告たる「PBレポート」として公開され、当社の戦後の研究の再出発に大きな影響を与えた。
その後、各種の研究の進展に伴い、研究所の陣容を強化するとともに、1957年(昭和32年)1月、新たに鉄筋コンクリート造5階建の研究所新館(2号館)を建設し、研究施設を整備拡充した。
1950年代の商品化研究
湿度による物性変化の測定(研究所)
研究所新館(2号館)
1957年(昭和32年)しゅん工当時
1950年代における写真感光材料商品の開発面における大きな成果は、高感度フィルムの開発とカラーフィルムの商品化である。
高感度フィルムの開発については、金増感(金の化合物を用いて、写真乳剤の感度を増加させる技術)の有効性を認識し、研究を進めてきたが、ようやく安定した増感方法を確立し、1952年(昭和27年)4月に発売した感度ASA100の“ネオパンSS”において、実用化することができた。
カラーフィルムについては、戦時中から研究を続けてきたが、戦後、外型カラーフィルムを完成し、次いで内型カラーフィルムの開発に取り組んだ。内型カラーフィルムには、カプラーが水溶性でそのまま乳剤に添加できる型(アグファ型ともいわれる)と、カプラーを油に溶解し、そのカプラー含有の油を細い油滴として安定した型にして乳剤に添加する型、すなわちオイルプロテクト型(コダック型ともいわれる)とがあった。オイルプロテクト型は、カプラーと写真乳剤中のハロゲン化銀粒子が直接に接触することがないので、生フィルムのもちがよいといわれていた。
しかし、当初からオイルプロテクト型の開発に取り組むのは困難であった。それに対し、水溶性カプラーを使用する方式は、「PBレポート」でその内容がほぼ明らかにされていたので、当社は、まず、水溶性カプラーを採用する方針で研究を開始した。
そして、この水溶性カプラーを使用して、1950年代後半にかけて、映画用内型カラーフィルムの最初の製品を商品化し、次いで1958年(昭和33年)10月には、一般用カラーネガフィルム・カラーペーパーも商品化することができた。
なお、これらの写真感光材料の研究と並行して、1950年代の研究所では、次の時代の多角化への種となるべき、磁気記録材料・電子写真・感圧紙などの基礎研究も、小規模ではあるが、スタートした。
生産技術研究の進展
商品化研究を進めるとともに、生産技術の研究にも積極的に取り組んだ。この面でも「PBレポート」をはじめとして海外の技術資料から多くの示唆を得ることができた。
写真感光材料生産技術面における成果は、まず、写真乳剤の塗布技術に現われた。すなわち、新しい界面活性剤の活用によって、フィルムベースに乳剤層と保護膜層を同時に塗布する技術も安定化し、従来では考えられないような高速連続塗布の技術を確立した。これによって、すべての高感度フィルムの写真乳剤層に保護膜が安定してつけられるようになり、すり傷や静電気の発生による製造工程中の故障を著しく減少させることができた。
塗布方式の面では、従来のディップコート方式(フィルムベースまたはバライタ紙を写真乳剤液に軽く浸して塗布する方法、スキムコート方式ともいう)に代わる新しい塗布方式として、エアーナイフコート方式(塗布された余分な乳剤に空気を吹き付けてかき落としてしまう方式)の研究に取り組み、実用化に成功した。
写真乳剤の製造技術面では、フィルムの高解像力を実現するために、乳剤の高銀化(ハロゲン化銀量に対してゼラチン量を少なくすること)が要求されたが、そのため、写真乳剤から水分をできるだけ取り除く脱水法の研究を進め、その新技術を実用化した。
1950年代以降、これらの新技術を第3フィルム工場の新設などに際して採用し、大きな成果を生んでいった。
また、最新の計装技術も採り入れた。それまでは、工程状況を知るためには、暗室の作業現場に測定器を持ち込まないとデータが取れなかったものが、離れたところで、また、明るいところでデータが取れるようになった。これによって、工程の状況を把握することが格段に進歩して、先手管理ができるようになり、工程の安定化に大きく貢献した。
電子顕微鏡による
ハロゲン化銀解析(研究所)
加工技術の進歩
写真フィルムの加工技術でも大きな進歩をみた。
フィルムの生産には、広幅で塗布した後、所要の大きさのサイズに裁断(スリット)したり、切断(カット)することが必要である。ロールフィルムの場合には、これを遮光紙とともにスプールに巻き込み、巻き込まれたフィルムを包装紙に包み、商品名を印刷した小箱に入れて封をする。これらの工程の大半は、暗室内の作業であり、総称して加工工程と称した。
この加工工程の技術で、当社が、戦前から最も苦心したのは、映画用フィルムであった。フィルムを裁断する裁断機(スリッター)やせん孔機(パーフォレーター)の精度不良によって画面に揺れが出たり、裁断時に発生するゴミの除去が不十分なために故障が発生したりして、対策に苦心した。戦後、フィルムベースを不燃化する際にも、フィルムベースの組成変更に伴い、裁断機やせん孔機の切れ味不良という問題に直面した。これらは、当時開発された新種合金材料を使用することによって無事乗り切り、映画用フィルム不燃化の大事業を完了することができた。
一方、ロールフィルムの分野では、戦前、海外に輸出した際、フィルムと遮光紙との接着故障に悩まされ、国内でも遮光紙不良による故障に悩まされたことがあった。これは、夏期の高温多湿に起因するもので、防湿対策に苦心した。
ロールフィルム半自動巻込機
戦後、高分子化学の進歩によって防湿包装技術が格段に進歩したが、当社は、この技術進歩を包装技術の改善に有効に活用した。そのため、1950年代に入ると遮光紙の技術進歩が著しく、東南アジア方面のような高温多湿地帯に輸出しても、また“ネオパンSS”・“ネオパンSSS”のような高感度フィルムを商品化しても、遮光紙の防湿不良による接着故障は全く発生せず、当社の信頼性を高めることができた。
また、この時代、アマチュア用ロールフィルムの需要が急激に増加し、従来の作業方法では限界があることが明らかになり、加工工程の機械化を推進していった。フィルムの巻き込み作業は、それまでは手作業で行なっていたが、大日本セルロイド専務取締役渡壁全一氏の指導のもとで、半自動巻込機を完成して実用化した。