日米開戦 - 太平洋戦争下の対応
1941年(昭和16年)12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。戦時体制のもと、統制が強化され、当社の民需用の生産は次第に低下するが、一方、軍需が激増し、増産に追われるようになる。このため、1943年(昭和18年)8月、資本金を2,500万円に増資することを決議し、工場拡張工事に着手する。しかし、戦火は、次第にわが国周辺に接近し、資材不足と、度重なる空襲によって、小田原工場はじめ各地の営業所が被災する。軍当局の要請で、生産設備の一部を満州(中国東北部)に移設する計画を立て実行に移すが、1945年(昭和20年)8月、ソ連の参戦により満州移設計画を中止する。そして、8月15日、終戦を迎えて、全工場の操業を停止する。
太平洋戦争のぼっ発 - 民需から軍需へ
富士バイパック乾板で
撮影した海軍合同葬
(1942年4月8日 日比谷公園において、
「報道写真」1942年5月号掲載)
1941年(昭和16年)12月8日、わが国は、日中戦争が継続している中で、米国、英国両国に対し宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した。
太平洋戦争のぼっ発は、当社にとって大きな衝撃であった。写真工業の前途にも不安を抱かざるを得なかった。
「日米戦争が始まれば、写真工業は続けられなくなるだろう」―これは、1941年(昭和16年)春、全国写真材料商組合連合会大会の席上で、日米開戦となった場合の写真工業の見通しについてメーカー側の見解をただされた際、当社を代表して取締役営業部長小林節太郎が行なった答弁である。
米国との戦争になれば、わが国は人も物も一切を戦争に投入して、血みどろの戦いを続けざるを得なくなるに違いない。前線銃後の区別なく、おそらく戦いはもっともせい惨な様相を呈することになるだろう。かくては、写真どころではなく、生産設備は挙げて兵器製造へ転換を余儀なくされるだろう。また、写真フィルム、印画紙の製造は許されるとしても、原材料の品質を特に吟味しなければならない写真感光材料工業にとっては、原材料の確保という面から、経営が困難になるに違いないと考えられたのである。日中戦争ぼっ発以来、極力原材料の自給体制を図ってきたとはいえ、国内だけで原材料を充足することはほとんど不可能と考えられていた。
太平洋戦争ぼっ発とともに、生産は、軍用、特に航空用を最優先とし、原材料も、重点的にこれに振り向けられた。
国民生活は、次第に圧迫され、著しく窮屈になってきた。写真を撮って楽しむといったことは、そのこと自体が時局に背を向けることとされ、写真が撮りにくい状況がつくり出されてきた。カメラを持ち歩くこと自体、白眼視される状況であった。写真感光材料は、ぜいたく品扱いされ、物品税率の大幅な引き上げが行なわれた。
戦時統制の強化と軍需生産優先のための企業整備や人手不足などによって、写真材料販売店の転廃業を余儀なくされるものも多く、販売機構も疲弊した。窮迫する原材料事情の中で、民需品の供給は極度にひっ迫した。映画用フィルム、X-レイフィルムはすべて生産統制された。少量の民需用の製品も、すべて統制会社のルートを通じて配給されたが、その後の戦局の激化によって、一般民需向けの写真感光材料の出荷は、ほとんどできなくなった。
足柄工場の拡張
軍需会社指定令書
軍用製品カタログ
戦局の緊迫につれて、原材料の確保はますます難しくなり、その品質も低下してきた。生産現場の最大の課題は、ますます品質が低下し、数量が不足する資材をいかに活用して、製品の品質を維持し、生産計画を達成するかにあった。
太平洋戦争の航空戦が激しくなるのに伴って、航空写真用のフィルムの増産要求が強くなった。開戦当初の予想に反し、足柄工場は繁忙を極めた。
軍用フィルムの増産に加え、さらに新しい需要が加わった。フィルムベースが航空機の風防ガラス用インターレアー(中間膜)として使用されるようになり、その製造を命じられたのである。当社は、全力をあげてインターレアーの増産に当たったが、なお、軍の必要量を満たすには至らなかった。また一方で、航空無線通信機用絶縁材料としてのアセチロールの生産も開始したため、開戦時には予想もしなかった設備の拡充が必要となり、インターレアー専門工場を新設するための計画立案を急ぎ行なうことになった。
その資金調達のため、1943年(昭和18年)8月16日、当社は、臨時株主総会を開き、同年11月1日付けで30万株(1,500万円)の増資を行ない、資本金を2,500万円とすることを決議した。増資の払込みは、同年11月から1945年(昭和20年)6月まで、3回に分けて行なわれた。
資金調達と並行して、インターレアー工場の建設計画も進め、1943年(昭和18年)10月、足柄工場の隣接地を買収し、直ちに建設工事に着手した。建物は完成したものの、戦時下の悪条件のもとで、機械設備の設置が遅れ、1945年(昭和20年)6月に、ようやくその一部が完成したにとどまり、結局、所期の目的を達成するには至らなかった。
淺野社長引退、新社長に春木榮
第2代社長 春木 榮
社長淺野修一は、当社の創立準備のころから一貫して、最高責任者として、創業に伴うあらゆる辛酸をなめ、その後いくたびもの危機を克服して、当社の事業の基礎を確立した。また、国産写真フィルムの開発および製造によって、国内の需要を完全に充足する理想をも実現した。さらに、戦時下においても光学分野を開拓し、経営の陣頭指揮に当たってきた。しかし、ここ数年来健康がすぐれず、ついに、1943年(昭和18年)11月、辞意を表明した。周囲は留任を懇望したが、淺野社長の辞意は固く、同年11月の定時株主総会をもって辞任した。
後任社長には、専務取締役春木榮が選任され、戦時下の難局に対処することとなった。
軍需会社に指定される
政府は、重要軍需品の増産に総力を結集するため、1943年(昭和18年)6月、重点産業を指定し、戦力増強企業整備要綱を発表して、企業整備を実施した。
この企業整備は、あらゆる産業に及ぶ大規模なもので、同年10月、写真感光材料製造部門にも示達され、企業の統廃合が行なわれた。
当社は、光学機器、インターレアー、アセチロール、航空用フィルム、地図用紙など、軍需上の重要製品を生産しており、また、作業能率も高かったために、国家の物資動員計画上欠かせないものとして、狩野工場を除いて、各工場とも、操業工場に指定された。
戦局の緊迫化した1943年(昭和18年)12月、軍需会社法が施行された。戦力増強に重要と思われる企業を軍需会社に指定し、政府自ら直接統制することにしたもので、当社は、翌1944年(昭和19年)4月、軍需会社に指定された。
1945年(昭和20年)1月には、防ちょうのために、会社名、工場名の使用が禁じられ、すべて番号で表示されることになり、本社は皇国第1014工場、足柄工場は皇国第5009工場と呼ばれるようになった。当社の他の工場にも同様の呼称がつけられた。以降終戦まで、「富士写真フイルム」の名称は使用されなかった。
工場、事務所の被災
戦災を受けた小田原工場
戦場は、次第にわが国の周辺に近づき、米軍機が本土に来襲するようになった。1945年(昭和20年)3月から5月にかけての空襲によって、東京の大半は焼野原となった。
足柄、小田原、雑司ヶ谷の各工場をはじめ、東京、大阪、名古屋の営業所も空襲による被害を受けた。
1945年(昭和20年)4月、雑司ヶ谷工場が空襲を受けて焼失した。さらに同年5月の空襲によって、東京銀座の東京営業所がり災した。
足柄、小田原の両工場は、東京方面へ向かう米軍機の飛行コースの直下にあったため、米軍機が飛来するたびに空襲警報のサイレンが鳴り響き、従業員は防空ごうに避難した。
同年8月5日の空襲で、足柄工場の各建物は機銃掃射を受け、フィルムベース工場の溶剤タンクが炎上、男子従業員1名が死亡、2名が負傷し、また8月7日の空襲では、原料倉庫の一部が焼失した。
小田原工場は、8月3日に米軍機の機銃掃射で被弾したが、次いで8月13日にも機銃掃射と爆撃を受け、待避中の男子従業員2名が死亡した。このときの空襲で、新設の光学ガラス溶融工場が壊滅、研究所の1棟が炎上したほか、全工場の建物はすべて損傷を受けた。なお、8月5日には、通勤途上の女子従業員1名が空襲で死亡した。
このように、足柄、小田原両工場とも、数次にわたる空襲を受けたが、従業員の懸命の消火作業によって被害を最小限にくい止め、工場施設の主要部分は被災を免れた。
満州(中国東北部)移設計画
1945年(昭和20年)になると、原材料資材は、ますます窮迫し、また、日本本土への空襲も激しくなったため、当社は操業を続けることが難しい状況に追い込まれた。そうした折、同年4月、写真感光材料の入手難に陥っていた満州映画協会(満映)では、当社に対し、満州(中国東北部)進出を強く要請した。また、軍需省航空兵器総局でも、重要軍需会社の満州疎開を計画し、当社にも一部設備の移転を要請してきた。
米軍機の本土空襲が激化し、また、米軍の沖縄上陸により、戦闘がわが国本土の周辺で展開されていた時期であり、機械設備を満州へ移すといっても、非常な困難が予想された。しかし、これは事実上の軍の命令であり、当社は、要請に従って満州への移設を決意、1945年(昭和20年)4月、大陸移設計画を軍需省航空兵器総局に提出し、その準備に当たった。
満州移設計画の渡航者名簿の一部
満州での工場建設に当たっては、満映と当社の共同出資で、「満州化工廠(仮称)」の設立が予定されていた。
この計画に従い、足柄工場では、移設機械の選定、取り外し、こん包作業が昼夜兼行で進められた。移設する機械・設備は、航空写真用フィルム、アセチロール、インターレアーなど航空用製品の製造設備と、映画用フィルム、X-レイフィルムその他の写真感光材料製造機械、および資材であった。
これら機械類は、6月18日、横浜港から3隻の輸送船に積み込まれ、満州へと向かった。
これと並行して、渡満従業員の選定を進め、足柄工場フイルム部長佐藤徹を隊長として、家族を含め総勢62名が決定した。一行は、7月7日貨物船で富山県高岡港を出航、1週間後の7月14日、朝鮮半島の北端に上陸、7月17日に満州遼陽に着いて、現地で機械類の到着を待っていた。
しかし、横浜港から出航した輸送船は、途中米軍機や軍艦の攻撃を受け、結局、3隻とも目的地に到着しなかった。
8月6日、広島に原子爆弾が投下され、続いて8月8日、ソ連はわが国に対し宣戦を布告し、国境を越えてソ連の大軍が満州になだれこんできた。
ことここに至り、満州移設計画は断念のやむなきに至った。渡満した従業員の一行は帰国を決め、8月13日、やむを得ず残留した佐藤徹とその家族を残して、遼陽を出発し、敗戦の悲哀と苦しみをなめつつ、8月22日、足柄工場に帰還した。
帰還に当たっては、遼陽からの出発も、奉天(現中国瀋陽)から安東への貨物列車も、安東から釜山への列車も、釜山からの貨物船も、すべてが最終便で、一つつまずけば、一行全員の無事帰還は不可能であったろう。
佐藤徹は、その後、苦しい生活と闘っていたが、1946年(昭和21年)1月、現地で病死し、再び祖国の地を踏むことはできなかった。
終戦を迎える
戦争終結の新聞報道 朝日新聞
1945年(昭和20年)8月
1945年(昭和20年)8月15日、わが国は連合国の降伏勧告、すなわちポツダム宣言を受諾して、長い戦争に終止符を打った。
足柄、小田原、今泉、川上の各工場は、8月15日をもって操業を停止した。8月いっぱい残務処理を行なった後、9月1日から、会社は臨時休業に入った。