光学ガラス、レンズ、光学機器への進出
当社は、写真感光材料メーカーとして出発したが、いずれはカメラの製造をも行ない、総合写真工業会社として発展することを目指していた。そして、写真フィルム分野で基礎をほぼ確立した1940年(昭和15年)3月、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を目指して、小田原工場内に光学ガラス溶融工場を建設する。しかし、折からぼっ発した太平洋戦争によって、民生用カメラの製造は不可能となる。しかし、軍用光学機器製造のため光学ガラスの需要が急増、当社は増設に次ぐ増設で需要に対処する一方、既設の光学機器メーカーを傘下に収め、また、富士写真光機株式会社を発足させる。これらは、戦局の激化に伴って、すべて軍用光学機器の生産に充当される。
光学ガラス工場の建設
指導に当たる高松亨博士
光学ガラス溶融工場
小田原工場 1944年(昭和19年)当時
当社は、写真感光材料メーカーとして出発したが、関連するカメラ、レンズの分野についても、かねてから調査を進めていた。そして、いずれ将来は、光学機器部門も含めた総合写真工業会社として発展していくことを目指していた。
写真フィルムの一貫生産体制がほぼ確立した段階で、当社は、レンズの素材からカメラ製造に至るまでの一貫生産を企図し、輸入事情が次第に厳しくなる情勢も踏まえて、まず、光学ガラスの生産から始めることとした。
当時、わが国における光学ガラスの製造は、民間では、わずかに日本光学工業株式会社と小原光学硝子製造所(後に株式会社に改組)の2社のみであり、光学ガラスの需要に対しては、そのほとんどを輸入に依存している状態であった。
当社にとって、光学ガラスの製造技術は全く未経験の分野であり、開発に当たっては多くの困難が予想されたが、1939年(昭和14年)、発足後間もない小田原工場の構内で、光学ガラス工場およびレンズ工場の建設に着手した。
光学ガラスの生産開始に当たっては、1939年(昭和14年)2月、まず、三宅源一郎(後の当社小田原工場長)ら4名を、大阪工業試験所に派遣し、光学ガラス製造の全工程について、技術指導を受けた。同試験所長高松亨博士は、わが国光学史上不滅の業績を打ち立てた権威者であり、約1か年にわたって、光学ガラス製造の実地指導の労をとられた。一方、溶融用るつぼの製法については、愛知県立瀬戸工業試験場で実地指導を受けた。
1940年(昭和15年)3月、建設中の光学ガラス工場が完成し、翌4月には、大阪工業試験所で研究を続けていた技術者が帰任し、溶融作業を始めたが、当初は試験溶融の域を出なかった。それでも、毎月1~2回高松博士を工場に迎えて、指導を仰ぎながら工程の安定化に努め、同年末までに、十数種の光学ガラスの製造に成功した。
また、翌1941年(昭和16年)からプレス成形品(ガラスを所定のレンズの形状に型押ししたもの)の製造研究を開始し、1944年(昭和19年)から各種プレス成形品を製造した。
一方、折からの国際情勢のもとで、わが国における光学兵器の国産体制の確立が強く要望され、また、これに伴って、光学ガラスの需要も増加していた。当社は、当初、カメラ用レンズの生産を企図して、光学ガラス部門への進出を計画したにもかかわらず、戦時体制の進展に伴い、実際に光学ガラスの製造化に成功した後は、すべて、双眼鏡用をはじめ軍需用に充てられることとなった。
そして、軍需用の増産要請に対応するために、光学ガラス工場は、第1期工事終了後直ちに第2期工事に着工し、1942年(昭和17年)1月、溶融工場、るつぼ工場、加工工場などを完成し、順次操業に入った。
しかし、それでも急増する需要に生産が追いつかず、1943年(昭和18年)10月、さらに、新工場建設に着工した。翌年3月しゅん工したが、機械設備の調達が難航し、設備が整ったのは1945年(昭和20年)7月末であった。
一方、1941年(昭和16年)6月には、小田原工場内に光学硝子研究部を新設し、光学ガラスの高性能化のための組成研究を行なうとともに、文献調査などの基礎研究と、生産現場に対する生産技術の支援を行なった。
レンズ部門と精密機械部門
射点観測写真機
航空写真用レンズ
フジF5 50cm
レンズの製造に当たっても、1940年(昭和15年)4月、淺井幸正(後の富士写真光機専務取締役)ほか2名を大阪工業試験所に派遣し、約1年にわたり、同所の山部敬吉氏らからレンズの設計ならびに製造全般について指導を受けた。これと並行して、1940年(昭和15年)4月、小田原工場内にレンズ工場を完成させ、その受入準備を進めた。レンズの鏡胴への組み込み作業は、すでに設置されていた精密機械製作部門の作業場で行なうこととした。
そのころ、海軍航空技術廠から航空写真機(射点観測写真機)の製作依頼があり、製作条件は厳しいものであったが、1940年(昭和15年)4月、これを完成し納入した。この写真機は、当社製第1号カメラとなった記念すべき製品である。
次いで1941年(昭和16年)7月にも、陸軍航空技術研究所の要請で、自動航空写真撮影現像投影装置を製作し、納入した。この装置は、撮影から現像、スライド映写までが60秒以内に行なえる画期的なものであった。
その後、レンズの生産も軌道に乗り、陸軍や海軍の要請で、各種の航空写真用レンズ、特殊写真機や光学機器を製作し納入した。
後に、精密機械製作部門が富士写真光機大阪工場へ移転した後は、レンズの鏡胴の生産を自ら行なうこととし、1944年(昭和19年)3月には、設計、研磨、鏡胴、組立の各部門を統合し、鏡玉部を組織した。
富士写真光機株式会社の設立
レンズ、航空写真機の、小田原工場での生産が軌道に乗り、陸・海軍からの受注も増大したため、増産の必要に迫られたが、戦時下のことであり、建物や設備の新設はほとんど不可能に近く、また技能者の養成もままならなかったため、既存の光学機械メーカーを系列に入れ、増産に対処する方針を決めた。
玉川光機株式会社
東京時計製造株式会社
まず、1942年(昭和17年)1月、玉川光機株式会社の事業を継承した。同社は、本社工場を東京世田谷区弦巻に置き、プリズム双眼鏡、対空双眼鏡などの製作を行なっていた。
続いて、1943年(昭和18年)11月には、東京時計製造株式会社を傘下に収めた。同社は、東京目黒区上目黒に本社工場を置き、置時計、電気時計などを製造していたが、日中戦争開始後は、日本光学工業の協力工場として、照準器の時計部品などの製作を行なっていた。
両社の系列化によって、レンズ、航空写真機の製造能力は大幅に向上したが、1944年(昭和19年)11月30日、両社の一体経営を図るため両社を合併し、東京時計航機株式会社として新発足させた。
この合併によって、旧東京時計製造は東京時計航機の大橋工場に、旧玉川光機は玉川工場に、それぞれ改称された。
それより半年前の1944年(昭和19年)3月には、陸軍造兵廠のすすめによって、当社は、株式会社榎本光学精機製作所を傘下に収め、社名を富士写真光機株式会社と改称し、当社専務取締役小林節太郎が同社取締役社長を兼任した。同社は、1934年(昭和9年)11月に創立され、資本金350万円、東京蒲田に本社工場を置き、そのほかに、工場を、東京鵜ノ木、目黒、埼玉県大宮、大阪に設け、主として双眼鏡の製造を行なっていた。
富士写真光機の発足後、1944年(昭和19年)6月、当社小田原工場の精密機械製作部門を同社の大阪工場に移転し、同年9月には、同社の資本金を700万円に増資し、施設の拡充を図った。
このように、国家的要請に沿って拡大育成に努めた光学機器部門であったが、その後、戦災によって東京時計航機は解散し、また、戦後、富士写真光機も大宮工場を残して他は売却する結果となった。