経営の危機 - 淺野社長の悲そうな決意
新会社発足直後、外国製品の値下げや映画界の「国産フィルムボイコット声明」によって、当社は大きな打撃を受ける。このような情勢の中で、足柄工場は操業を開始し、1934年(昭和9年)4月、映画用ポジフィルム、乾板、印画紙を初出荷する。しかし、いずれも、品質上の問題から販売は難航する。当社は、マウエルホフ博士を招へいして写真乳剤の改良に努める一方、生産を一時ストップして映画用ポジフィルムの改良に当たる。しかし、創立以来4期連続の大幅赤字で、当社は危急存亡の危機に立たされる。この時、淺野社長は、「自分は、この写真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であるから、志を同じくする人は、自分と運命をともにされたい」と悲そうな決意を披れきする。
足柄工場、稼働を開始
フィルムベース工場
フィルム工場
乾板工場
印画紙工場
足柄工場は、創立総会に先立って、1933年(昭和8年)12月から、本格操業に向けて試運転を開始したが、前途には、なお多くの困難が横たわっていた。当社の生産技術は、フイルム試験所を中心とするささやかな設備による実験結果をもとにして得たものであり、こうした大規模設備で、直ちに量産に入るには、経験とデータが不足していた。
創業時の足柄工場の主要な生産設備は、フィルムベース製帯機4機、フィルム塗布機1機、印画紙塗布機1機、乾板塗布機2機であった。
まず、フィルムベース製造部門では、1933年(昭和8年)12月に第1号製帯機が稼働を始めたのに続き、翌1934年(昭和9年)2月からは、第2号機、第3号機が相次いで稼働を始めた。
大幅銅帯によるフィルムベース流延の経験がなかったため、当初は、すべて小幅銅帯によっていたが、新輸入機の操作になれるに従って大幅ベースの製造に入った。
また、フイルム試験所時代から着手していた不燃性ベースの研究も、創業に伴うさまざまな困難に直面しながらも中断せず、大日本セルロイドのセルロースダイアセテートの研究に協力しながら進められていた。
フィルムベースに写真乳剤を塗布するフィルム製造部門でも、1933年(昭和8年)12月から、塗布機が試運転に入った。全くの新設備であったが、操作は比較的順調に進んだ。しかし、塗布後の乾燥不十分によるトラブルが発生し、乾燥方法の改善や乾燥室の改造などに、さらに工夫を必要とした。
映画用ポジフィルムを仕上げる加工工程でも、せん孔(フィルム映写のときの送りの穴あけ)の不正確、接合部の不良などの問題が発生し、その解決に苦労した。
乾板製造部門も、1933年(昭和8年)12月末から試運転に入った。新設備は、東洋乾板時代に比べて、すべての面で優れており、しかも東洋乾板以来の熟練技術者が多く、足柄工場の中では最も順調なスタートが期待された。しかし、乾板用の写真乳剤の製造は、東洋乾板当時と同じ技術者が同じ処方で仕込んだにもかかわらず、同じ感度のものが作れなかった。やむを得ず、当初は、旧東洋乾板の雑司ヶ谷工場で写真乳剤の仕込みを行ない、それを足柄工場に運搬する方法をとった。だが、その原因が水洗用の水にあることを突きとめ、対策を講じてからは品質は安定し、その後作業は順調に進み、やがて雑司ヶ谷工場での写真乳剤製造を中止した。
「会社に入っていろいろ苦しんだことはありますが、このときほど苦しんだことはありません。工場が動いていて写真乳剤ができないのだから。人にいえない数々の苦しみを味わってきました。」
当時、乾板部主任であった藤澤信は、後年、この苦しみについてこう語っていた。
印画紙製造部門では、1933年(昭和8年)12月から、数回にわたる試運転の後、写真乳剤の塗布作業を始めたが、塗布紙にはん点が発生したり、乾燥方法に不適当な点があったりして、後述のとおり、出荷した製品も、返品の山をなす状態で、その改善には若干の日時が必要であった。
相次ぐアクシデント
新会社として発足、本格操業に向けて懸命の努力を続けていた当社に、思いもかけない衝撃的な出来事が待ちかまえていた。
その一つは、コダック、アグファ両社の製品価格の大幅な値下げであり、もう一つは、大日本活動写真協会の“国産フィルム使用反対”の爆弾声明である。
外国製品の値下げは、当社としてもある程度予期していたことであったが、当社発足直後の1934年(昭和9年)2月1日のこの両社の値下げ発表は、新たに進出を目指す当社にとって、大きな衝撃であった。
さらに、その衝撃もさめない同年2月4日、大日本活動写真協会の“国産フィルム使用反対”声明が当社を襲った。
大日本活動写真協会は、日活、松竹、新興キネマ、大都映画などの大手筋を含む映画会社の全国的統一機関で、同協会の“国産ポジフィルムはいまだ使用できる状態ではない”との反対声明は、映画用フィルムの国産化を目的に発足した当社にとって、まさに衝撃的な出来事であった。
当社は、大日本セルロイド時代から、映画用ポジフィルムの試作品を各映画会社へ提供し、何度もテストを依頼していた。いずれの映画会社も、当時高まりつつあった国産品愛用の気運のもとで、国産映画用フィルムのテストに好意を寄せ、耐久試験をはじめ各種試験を丹念に行なって、当社にとっては良き助言者であった。しかし、各映画会社のテスト結果は、当社の試作品はまだ外国製品に及ばないというものであった。
映画用ポジフィルムの初出荷
富士陽画用フィルム
(レーベル)
当社は、足柄工場の操業開始とともに、映画用ポジフィルムの生産を軌道に乗せるために全力を集中した。その結果、ようやく厳しい規格に合格する映画用ポジフィルムの製造ができるようになり、商工省係官の第1回規格検査を受け、同年4月、“富士陽画用フィルム”として初出荷した。
これは、大日本セルロイド時代からの長年に及ぶ研究開発がようやく結実し、自力でフィルムベースから開発した国産初の映画用ポジフィルムであるだけに、関係者の喜びは筆舌に尽くせぬものがあった。
しかし、大日本活動写真協会のボイコット声明もあり、映画会社からの注文は一向になく、製品の在庫はたまるばかりであった。
こうした苦境を打開するため、当社は、足柄工場で品質の改良に努めるとともに、商工省に対して当社製の映画用フィルムの使用促進のための陳情を行ない、映画会社に対する販売活動も積極的に行なった。映画会社の幹部および現場の技術者と頻繁に接触し、見本品の提供や使用条件の説明など、連日これに努めたのである。
その結果、1934年(昭和9年)6月、かねてから採用を働きかけていた朝日新聞社から、同社のニュース映画に当社の映画用ポジフィルムを採用するという朗報がもたらされた。
これは、当社の映画用ポジフィルムに対する初のまとまった注文であり、その後、他のニュース映画にも逐次使用される糸口となった。また、後には、朝日世界ニュース映画をはじめ、他のニュース映画のタイトルに「純国産富士フイルム使用」の文字を挿入することができ、当社のイメージアップに著しい効果があった。
また、劇映画製作各社への働きかけもようやく実を結び、1934年(昭和9年)10月には、待望の長編劇映画にも初めて当社の映画用ポジフィルムが採用されることになった。入江たか子プロのトーキー映画「雁来紅」である。「雁来紅」は、同年11月22日から帝国劇場で上映され、その後、新興キネマの「貞操門答」にも当社のポジフィルムが使われたが、これらは、いずれも画調がさえず、画面の揺れなどが生じ、決して良い結果とはいえなかった。
その後も、当社は、写真乳剤処方の改善を図り、映画製作各社に使用を働きかけた。その結果、一部作品に使用されて、性能の改善のあとは認められたが、フィルムベースの耐久力不足について痛烈な非難を受けた。
練馬工場(富士スタジオ)の開設
富士スタジオ(練馬工場)の全景
富士スタジオ(練馬工場)の照明装置
良質の映画用フィルムを製造するためには、長尺のフィルムを使用して、実際に映画を製作し、大規模な処理テストをする必要があった。これによって、品質の改良ための方向性を見出すことができるし、また、映画製作会社に対して、当社製映画用フィルムの撮影条件、現像条件など、的確なデータを作成提供して、当社製品の適切な使用法を認識してもらう必要があったが、足柄工場の試験設備だけでは、データ作成のための十分なテストができなかった。
こうした折、1934年(昭和9年)4月、不二映画製作所の建物の買収問題が持ち込まれた。同製作所は、東京練馬の豊島園の裏手にあり、鈴木伝明氏らの経営によるもので、映画製作に必要な設備を持っており、経営不振のため当社に買収の打診がなされたものである。当社は、ここで映画用フィルムの長尺テストを行なう目的で、買収に応じた。
当時、大日本活動写真協会のボイコット声明直後のことであり、場合によっては、自らフィルムを使用して映画製作を行なうことも検討しなければならない事情もひそんでいたのであった。
諸設備を整えた後、同年8月、練馬工場として発足したが、社外に対しては「富士スタジオ」の名で披露し、現像、プリント業務と合わせて、貸スタジオとして広く映画関係者の使用に供した。
乾板および印画紙の発売
富士スタンダード乾板
(レーベル)
富士ポートレート乾板
(レーベル)
A1(エーワン)乾板
(レーベル)
乾板および印画紙も、創立直後の1934年(昭和9年)4月に、映画用ポジフィルムと同時に発売したが、その売れ行きははかばかしくなかった。その理由の一つは、当時の写真感光材料業界が閉鎖的で新規参入者に厳しかったこともあったが、要は、製品の品質が外国製品に劣っていたことであった。
乾板では、1934年(昭和9年)4月、最初に“富士スタンダード乾板”を発売したが、この製品は性能的に思わしくなかった。同年7月に“富士ポートレート乾板”を発売するに及び、ようやく写真館に使用されはじめた。
この間、後述するマウエルホフ博士の指導による新写真乳剤の研究開発も進み、その完成を待って、翌1935年(昭和10年)9月に発売したのが“A1(エーワン)乾板”で、当時定評のあった英国のイルフォード社の赤札乾板をしのぐとの評価を得た。
“A1(エーワン)乾板”の評価によって、当社の乾板部門は一応軌道に乗り、その後、同年10月には“富士ポートレート乾板II型”を、同年12月には“富士ネオクローム乾板”を、それぞれ発売した。
この間、“富士航空オルソ乾板”など、数種の特殊用途乾板の製造にも成功し、相次いで発売した。
新製品を開発し発売する苦労は、乾板部門も他の部門と変わるところはなかったが、東洋乾板時代の長い経験に支えられて、創立直後のトラブルを克服した後は、比較的早く作業を安定させることができた。
印画紙も、フイルム試験所時代からの研究成果を基にして、操業当初から、1934年(昭和9年)4月に人像用密着紙“富士”と一般用密着紙“利根”を、同年8月には一般用引伸紙“富士ブロマイド”を、それぞれ発売した。しかし、いずれも保存性に難点があり、数か月経つと変色するというクレームが相次いで発生し、返品の山となり、発売後間もなく、いったん製造を中止せざるを得なかった。
その後、“利根”と“富士ブロマイド”は、改良して再び発売したが、“富士”はそのまま製造を中止した。
印画紙 富士
(レーベル)
印画紙 利根
(レーベル)
印画紙 富士ブロマイド
(レーベル)
営業・普及の活動
当時の写真感光材料の主力需要先は、営業写真館であった。営業写真館は、婚礼写真など、いわゆる記念写真の撮影とプリントがその主業務であり、失敗の許されない仕事である。したがって、営業写真館の写真感光材料選択には、使い慣れと品質の安定度が重要な基準となる。
写真感光材料は、事前に中身を見て、品質を確かめて選択することができないため、メーカーに対する信用と実績が大きく作用する。新製品が出たからといって、おいそれと使ってはくれなかったのである。
こうした厳しい情勢の中で、当社は営業活動を開始し、製品の需要先の開拓と販路の拡張に奔走した。
創業間もなく、東京の営業写真家に対し、菊正ビルで乾板の実験会を催したのをはじめ、各地で実験会、試写会を開き、当社製品の普及に注力した。また、普及班を編成し、北海道から九州までの全国各地、さらには満州(中国東北部)方面までも、くまなく実験会を開催した。また、この機会をとらえて、各地の営業写真館や写真材料販売店を訪問して、販売・普及に努めた。
「外出のいでたちは、Fuji Filmの印がくっきりと押された大型カバンに、乾板や印画紙のサンプルを詰め、朝に“エーワン、ポートレート”を賛え、夕に“利根”を念じ、ひたすらこれを合言葉として、戸別訪問に明け暮れた……。」
当時のセールス担当者は、創立直後の営業活動について、こう述懐している。
写真乳剤の改善とマウエルホフ博士
各製造部門の中で、乾板部門は比較的早く軌道に乗ったが、そもそも当社創立の意図は、映画用フィルムの国産化であり、乾板の売り上げが過半を占めるという状態は、必ずしも正常なスタートとはいいがたいものであった。したがって、当社としては、外国製品に劣らない映画用フィルムの製造を、一日も早く軌道に乗せる必要があった。
それまで当社製の映画用ポジフィルムの欠陥として指摘されたのは、
- 画面が暗く、画質が劣ること
- フィルムベースの耐久性が著しく劣ること
- 画面の揺れや、フィルム切れが多いこと
の3点であった。
マウエルホフ博士
A1(エーワン)乾板実験会場
外人社宅として建設した芙蓉荘
当社は、これらの欠点を取り除くべく、品質の改良に全力を傾注した。
これら欠陥の中で、画質を改良するためには、写真乳剤の改善が必要であるが、この点に関しては、ドイツ人技師マウエルホフ博士の指導によるところが大きかった。
マウエルホフ博士は、足柄工場長春木榮が先に機械購入で渡欧した際、技術指導のため契約し招へいした写真乳剤の専門家で、写真工業全般についても広い知識を持っていた。
博士は、1934年(昭和9年)4月に来日し、足柄工場で、写真乳剤の製造研究を指導するかたわら、感光色素合成も指導した。
足柄工場の若手技術者も、博士の短い滞在期間中にその知識のすべてを吸収しようと、写真乳剤研究を担当した中村真三以下、必死で頑張った。博士の薫陶を受けた当時の若い技術者は、博士の思い出を次のように語っている。
「それまでわからなかったことが、目が覚めるようにわかったのです。後から考えれば別に難しいことでも何でもない。つかむべき要点があったのです。それまでは、それがつかめないものですから、まごまごやっていた。そしてやる度に違うものができても“写真乳剤は生きものだ”なんてすましていたのです。」(当時足柄工場フイルム部主任心得竹内喜三郎)
「博士が来たから、当社はつぶれずにすんだ……。博士が写真乳剤の生産方式を確立した。厳しい人で、人を使うことなど何とも思わない。よく徹夜作業をやりました。われわれとしても、1年契約で招いた先生ですから、その間に博士の知識を全部吸収しようと、必死で頑張りました。」(当時足柄工場検査部村上永治、後のフジカラーサービス株式会社取締役会長)
「博士は、印画紙乳剤の処方についても参考資料を持っていて、向こうではこういう処方でやっているよ、と教えてくれました。それをもとにして“利根”の乳剤を作り直しました。」(当時足柄工場印画紙部庄野伸雄、後の富士ゼロックス株式会社取締役副会長)
博士の指導によって、1934年(昭和9年)12月には、新写真乳剤製造仕込み装置が完成、写真乳剤の大量仕込みが可能となるとともに、品質の均一性を高めた。
博士の滞日中の指導で確立された写真乳剤の処方は、フィルム、乾板および印画紙の数十種に及んだ。また、感光色素の研究も、博士の指導によって著しく進んだ。
マウエルホフ博士は、足柄工場に10か月滞在し、1935年(昭和10年)2月、多くの功績を残して離日した。
なお、博士の助手を務めたアメリカ人フランシス・ギロイ(F.Gilroy)は、同年6月まで足柄工場に残り、写真乳剤製造の現場技術を指導した。
マウエルホフ博士の指導で、写真乳剤の改良はされたものの、もう一方のフィルムベースの耐久力不足の問題は容易に解決できなかった。このため、1935年(昭和10年)には、ついに映画用ポジフィルムの生産を一時中止し、根本的な改善に取り組むこととした。
経営の危機 - 淺野社長の悲そうな決意
外国製品の値下げ、販売力の不足、品質問題などの事態が相次ぎ、映画用フィルムも、一般用写真感光材料も、販売は不振をきわめ、創立間もない当社の経営は、危急存亡の危機に直面することになった。
創立初年度(9か月)は、売り上げ54万7,000円に対し、17万円の赤字を計上したが、2年度に入っても好転の兆しは見られず、印画紙は操業を短縮、映画用ポジフィルムはベース不良のため一時生産をストップ。この間、乾板は、“富士ポートレート乾板”、“A1(エーワン)乾板”が、ともに好調であったが、乾板の売り上げのみでは当社の屋台骨が支えられず、創立当初の2年間で、売上高累計205万円に対し、累積損失は33万円に達し、1935年(昭和10年)10月末には、借入金も224万円の巨額に及んだ。
こうした情勢の中で、淺野社長は、東京銀座の菊正ビルの営業所を閉鎖して、雑司ヶ谷工場内に事務所を移すことを宣言すると同時に、強く緊縮方針を打ち出した。冗費は一切カットし、それによって浮く費用を、技術の向上と設備の改善に充てようとするものである。
しかし、こうした一連の措置でもすぐには業績が向上するはずもなく、1935年(昭和10年)末、淺野社長は重大決意を表明した。
「資本金の40%に及ぶ巨額の助成金交付を約束されて、写真フィルム工業を確立して外国品を駆逐することを自分に課せられた使命と観じ、会社経営に当たってきたが、毎期赤字を続けて、会社は憂慮すべき状態にある。前途有為の諸君を、今後どうなるかわからない会社に縛っておくことは忍びがたい。他のよい会社へ転ずる道があるならば、なんら遠慮することなく、当社を去られたい。いまならば退職手当も若干出せる。ただ自分は、この写真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であるから、志を同じくする人は、会社に残って、自分と運命をともにされたい。」
会社が想像以上の危機にあることを知った従業員は、大きな衝撃を受けたが、淺野社長の率直かつ悲そうな決意表明は、かえって従業員の団結を促し、あくまで会社と運命をともにする決意のもと、全社あげて技術の向上と販売の拡大に取り組むことになったのである。