総合写真感光材料メーカー富士写真フイルム株式会社の誕生
足柄工場の建設と並行して、大日本セルロイドは、写真フイルム国産化事業の困難さを訴え、政府に助成措置を申請する。商工省は、この申請を認め、映画用フィルムの製造奨励金として、総額120万円を交付することを決定する。一方、大日本セルロイドは、足柄工場の操業開始に当たって、写真フィルム事業を独立させ、新会社として運営することを決定する。かくして、1934年(昭和9年)1月20日、新会社の創立総会が開催され、資本金300万円をもって「富士写真フイルム株式会社」が誕生する。同年6月には東洋乾板を統合し、ここに、映画用フィルムなど写真フィルムをフィルムベースから一貫製造するとともに、乾板、印画紙の製造を行なう総合写真感光材料メーカーがスタートする。
商工省の製造奨励金を受ける
商工省では、このころ、写真フィルム国産化が国家的に極めて重要であるとして、すでに大日本セルロイドに対して、映画用ポジフィルム、ネガフィルムの研究奨励金を交付していたが、写真フィルム工業を、染料、ソーダ灰に次いで、国の助成産業に指定する方針を明らかにしていた。
このことはまた、写真フィルム事業の国家的重要性が認識されたことを意味し、映画業界や写真業界から、ひとしく好感と感謝をもって迎えられたが、何よりも大日本セルロイドにとって著しい励みとなった。
映画用生フィルム
製造奨励金下附申請書
映画用フィルム
製造奨励金交付示達書
第1期分交付書
大日本セルロイドは、かねてから、足柄工場の建設計画を進めながらも、その工業化はあまりにもリスクが大きく、単独会社の力をもっては容易に実現しがたい実情を述べていたが、足柄工場の建設工事がピークを迎えていた1933年(昭和8年)6月5日、「映画用生フィルム製造奨励金下附申請書」を商工大臣に提出した。
この申請書は、映画事業の必要性と映画用フィルム国産化の重要性について次のように述べ、その事業完遂がいかに困難であるか、とりわけ、経済的に自立し得る域に達することの困難さを訴え、国家的見地からの援助、すなわち映画用生フィルム国産化のための奨励金の交付を申請したものであった。
「時代ノ文化ト大衆生活ニ密接ナ関係ヲ有スル映画事業計画ハ今日既ニ世界的ニ異常ナル発展ヲ遂ゲ来レルガ文運ノ進歩ト科学ノ発達ニ伴ヒ斯業将来ノ飛躍ハ端倪スベカラザルモノアリト曰フベシ
飜ツテ我国ノ映画事業ヲ見ルニ渡来以来約四十年ヲ経過セルガ最近ノ十余年ニ於テハ特ニ其ノ進歩発展目覚シク娯楽映画ハ既ニ演劇ヲ凌駕シ全国千三百有余ノ常設館ハ日日六十万一ケ年二億ノ観客ヲ収容シ演劇ノ僅カニ三千五百万ナルニ比シ雲泥ノ差アリ。都市ハ素ヨリ農、山、漁村大衆ノ娯楽機関トシテ欠クベカラザルモノトナリタルガ今後軍事教化宣伝方面ヘノ利用拡大ヲ考フル時ハ映画事業ノ重要性ハ益々痛感セラルルモノナリ。
然ルニ映画用生フィルムハ我国ニテハ未ダ全ク其ノ生産ヲ見ズ全部之ヲ海外ヨリ輸入ニ仰グノ状態ナルヲ以テ価格ハ不廉ニシテ供給ハ円滑ヲ欠ク更ニ一朝有事ノ際ヲ考フル時ハ軍事上ノ需要ヲモ充タシ得ズ寒心ニ堪エザルモノアリ映画用生フィルムノ国内生産ハ実ニ最モ重要ニシテ緊切ナルモノト曰フベシ(後略)」
この大日本セルロイドの申請に対し、1933年(昭和8年)10月14日、「映画用フィルム製造奨励金交付示達書」が下付された。それによれば、一定の規格を設け、決められた規格に合格した映画用ポジフィルムに対して、1フィート(約30.48cm)当たり1銭7厘1毛の割合で、向こう4年間、総額120万円まで交付するというものである。この金額は、当社創立時の資本金300万円と比較しても、当時としては大きな額であった
富士写真フイルム株式会社の誕生
大日本セルロイド株式会社
写真フイルム部事業継承の
あいさつ状
創立総会における役員(前列左より)淺野修一、
長嶋鷲太郎、菊池恵次郎、西宗茂二、森田茂吉、
平田篤次郎(後列左より)伊藤吉次郎、井上逞吉、
作間政介
初代社長 淺野修一
創立当時の足柄工場の事務所
大日本セルロイドは、足柄工場のしゅん工を間近に控えた1933年(昭和8年)11月、写真フィルム事業を分離し、別に新会社を設立して経営することを決定した。
当初、写真フィルム事業の運営形態については、これまで十数年間注いできた努力を同社内で実らせたいという考えから、大日本セルロイド内の事業として運営すべきであるとする意見も強かった。しかし、究極的には、セルロイド事業がすでに大成の域に到達しているのに対し、写真フィルム事業は、製造についても、販売についても、セルロイド事業とは全く異なる分野であり、将来写真フィルム事業を大成させるには、製造面でも販売面でも、セルロイド事業とは別の取り組みが必要であるとの考え方に基づいて、新会社の設立を決めたのである。
そして、足柄工場の完成を待って写真フィルム事業を切り離し、それに東洋乾板を合併し、総合写真感光材料工業会社として運営することとした。
創立総会は、1934年(昭和9年)1月20日、東京市京橋区銀座の菊正ビルで開催された。ここに「富士写真フイルム株式会社」が誕生したのである。創立当初の株主は、大日本セルロイドほか13名であった。
資本金300万円、本社および工場を神奈川県足柄上郡南足柄村中沼210番地に置き、営業所を上記菊正ビルに設け、大日本セルロイドの写真フイルム部の事業一切を継承し、総合写真工業会社として発足した。事業目的は、定款第1条に「写真及活動写真用フィルム、印画紙、乾板ノ製造及販売」と「写真及活動写真用諸薬品並ニ機械器具ノ製造及販売」および「右ニ関聯スル事業及投資」を営むことと明記された。
創立当時の役員には、
専務取締役社長 淺野修一 (大日本セルロイド専務取締役)
常務取締役 作間政介 (東洋乾板専務取締役)
取締役 平田篤次郎 (株式会社芝浦製作所取締役社長)
取締役 西宗茂二 (大日本セルロイド専務取締役)
取締役 菊池恵次郎 (東洋乾板取締役社長)
取締役 井上逞吉 (大日本セルロイド常務取締役)
監査役 伊藤吉次郎 (大日本セルロイド常務取締役)
監査役 長嶋鷲太郎 (大日本セルロイド取締役)
が選任され、就任した。
相談役には、森田茂吉(大日本セルロイド取締役会長)が推薦され、就任した。
淺野社長は、新社名を決めるに当たって、かねてから、東海道を旅行するたびに車窓から仰ぐ“富士”を新社名に冠したいと考えていた。ところが、“富士”はすでに第三者によって商標登録されており、「譲渡してほしい」と何回も交渉したが、“富士”は日本で最も優れた名称だからとして、なかなか譲渡に応じてもらえなかった。しかし、ねばり強く交渉した結果、8,000円という当時としては大金で、やっと譲り受けることができた。
また、社名に「フイルム」と入れたのは、フィルム国産化こそ当社の使命であるとの考えを明確にするためであった。
創立時における当社の従業員は、大日本セルロイドからの移籍者に新規採用者などを加え、総数340名であった。従業員のほとんどは青少年であり、この若い従業員を率いる指導者も、淺野社長47歳、作間常務48歳と若く、足柄工場長春木榮、営業部長心得小林節太郎はともに34歳で、生産現場の責任者はいずれも30歳前後の若者であった。
なお、足柄工場のほかに、大日本セルロイド東京工場構内に、高純度の写真用硝酸銀製造工場を設け、これを志村工場薬品部と称した。また、創立の翌月2月20日には、大阪出張所を開設した。
東洋乾板を統合
創立後間もない6月10日、当社は、かねてからの合意に基づき、東洋乾板を吸収合併した。
東洋乾板は、わが国における写真感光材料開発のパイオニアであり、また、当社の創立にも大きく貢献してきたが、15年にわたるその使命を終えて、当社に統合されたのである。
統合後は、同社を当社雑司ヶ谷工場と改称し、従業員は全員、当社に移籍した。
雑司ヶ谷工場では、その後も引き続き乾板の製造を行なっていたが、足柄工場での乾板製造が軌道に乗るとともに、これらの製造を中止し、以後、ロールフィルム加工工場として再出発した。
販売網の確立
創立当時の社章
創立当時の社旗
当社は、東洋乾板の統合に伴って、その販売網も引き継いだ。
写真感光材料業界に販売の足場をもたない当社が新規進出するためには、同業界に実績をもつ、東洋乾板の販売ルートに頼る必要があった。
したがって、当社の営業活動は、販売担当者も、販売組織も、すべて、東洋乾板から引き継いでスタートした。
また、当時は、コダック社、アグファ社などの外国製品がわが国市場を席巻し、それら外国製品の販売特約店が流通機構を抑えていたため、新規参入が難しい状態でもあった。
東洋乾板の製品は、株式会社浅沼商会、小西六本店、株式会社美篶商会(現美スズ産業株式会社)、近江屋写真用品株式会社、株式会社大沢商会、山下商店、上田写真機店など、写真材料の有力卸商を特約店として販売されており、この特約店のメンバーを「弥生会」と称していた。すでに1933年(昭和8年)、足柄工場建設工事中から、このメンバーを工場に案内し、各メンバーは新工場に関する理解を深めてきたが、当社創立とともに、「弥生会」のメンバーを当社の特約店とした。このほか、大阪、名古屋にも新規特約店の設定を計画したが、当時の業界の慣習として、新規特約店の設定には、既存特約店の承諾が必要で、その了解を得るために、多くの時間を要した。
また、当社の発足に先立って、1933年(昭和8年)11月、当社は、輸入フィルムの取扱商社である株式会社長瀬商店(現長瀬産業株式会社)に、当社の映画用フィルム製品の取り扱いを懇請し、翌1934年(昭和9年)6月、特約店契約を締結した。これによって、当社の映画用フィルムは、長瀬商店を通して一手販売する道が通じた。しかし、輸入品が支配している市場に、実際に当社製品が進出していくためには、容易ならぬ苦労が伴うことを覚悟しなければならなかった。