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生産部門における効率化の推進

 

1970年代に入るころから、製造現場では、品質の安定性を高めることを目的として、「一定条件製造」という考え方の徹底を図り、効果をあげていく。一方、製造設備の保全に、TPM(全員参加の生産保全活動)を導入、RM活動で培ってきた土壌の上に自主保全活動を展開する。RM活動は、足柄工場から全工場の活動へと広がり、QC活動・TPM活動・コストダウン活動の具体的な展開に当たっても大きな役割を果たす。提案活動も年々活発化する。さらに、生産技術の高度化に対応し、主として現場オペレーターの技術適応力の開発・向上と、再訓練を目的に技術研修を充実させる。また、職場の安全活動も積極的に展開する。

調節をやらない工程管理

1970年代に入るころから,足柄工場では,調節をやらない工程管理,すなわち「一定条件製造」という考え方の徹底を図ってきた。製造現場での製造に際しては,原材料の規格やその投入条件・製造機械の運転条件は,常に,ごく狭い範囲(管理限界)内に一定に保ち,これらを意識的に変えることは一切行なわない。万一,製造された製品の品質特性が所定の管理限界を超えた場合は,直ちにその工程を止め,異常をもたらした真の原因を突き止め,それを改善してからはじめて稼動を再開する。従来,品質特性が管理限界を超えた場合,ややもすると,そのつど部分的に調整を行なって品質特性を規格内に入れるという方法が安易にとられたこともあった。しかし,真に品質の安定性を確保するためには,この方法では決して十分とはいえなかった。

一定条件製造というやり方では,稼動の初期には製造ラインが停止することが多く,大きな原材料のロスと稼動損が発生することも少なくない。しかし,技術上・設備上の問題点を忍耐強く克服していけば,一定条件を与えさえすれば均質な製品をいつも安定的につくり続けることのできる工程を実現することが可能となり,製品の品質の信頼性を高めることができる。また,このような管理をすることによって,職場全体に品質意識を厳しく認識させることができ,品質意識の高い従業員が育成されてきた。

また,品質保証体系の考え方の見直しも行ない,従来,工程の途中で行なっていた抜取検査も次第に無検査化の方向に進んでいった。

そして,この「一定条件製造」の考え方や「無検査化」の方向は,逐次他の工場にも徹底していった。

ちょうどこのころから足柄工場の第3フイルム工場の塗布溶解工程を最初として,コンピューターによるプロセス制御が次第に各製造工程に採り入れられてきた。これによって,製造条件をより厳しく設定することが可能となり,このコンピューターによるプロセス制御は,工程の安定化に寄与した。

一方,IE面では,生産部門での機械化・自動化が急速に進む中で,設備とそれを取り扱う人間とをトータルな観点で考えて効率化を推進することが課題となってきた。従来の作業改善的なIEの考え方に対して,設備技術者と製造現場の関係者がチームを組んで,工程編成・マテリアルハンドリング・レイアウト・生産管理システムなど,工程全体についての効率化に取り組んできたのである。このトータルIEの考え方は,各工場の生産工程に導入され,効果をあげていった。

また,製造現場第一線の管理者・監督者に対するIE教育を徹底して,日常の作業改善は製造部門自らの手で実施できる体制を築き上げていった。

TPM活動の導入

写真感光材料は,顧客が事前に品物の中味を確かめてから購入することはできない,いわば「信頼を売る」商品であり,その生産方式は典型的な装置産業である。その信頼を実現する手段の一つとして,品質を生産工程で設備によって作りこむ必要があり,当社は,設備のメンテナンスを重視してきた。そして,設備の自動化・高度化が進むにつれ,設備保全の問題はますます重要な問題となってきた。

当初のメンテナンス体制は,故障が発生したら補修復元する,いわゆる事後保全体制であったが,1950年代初めに,まず足柄工場に予防保全(Preventive Maintenance)制度を導入した。これは,各設備ごとにあらかじめ点検や整備の実施項目と周期を決めて標準化しておき,一定時間たつと計画的に設備停止を行ない,点検・整備を実施していくタイムベースの保全システムで,保全要員を保全部門に集中して保全業務に専念させ,製造部門は運転に専念する体制とした。これによって,保全業務の効率化や保全技術の向上が促進されるとともに,生産設備の稼動の効率化を図った。

また,保全に関するデータをコンピューターに登録し,保全の実施時期がくると自動的に情報がアウトプットされるシステムも導入して保全管理業務の一層の効率化を実現した。

[写真]TPMの手引き書(足柄工場)

TPMの手引き書(足柄工場)

[写真]女子オペレーターによる加工機械の点検(富士宮工場)

女子オペレーターによる加工機械の点検(富士宮工場)

[写真]RM活動の機関紙(足柄工場)

RM活動の機関紙(足柄工場)

[写真]RMの手引き書とRM大会記念論文集(足柄工場)

RMの手引き書とRM大会記念論文集(足柄工場)

このように,設備の予防保全体制は,保守や稼動の効率化に効果があった反面,保全は保全担当者に任せきりの風潮を生む一面があった。この問題を解決するために,設備のメンテナンスを単に一部門の問題として扱うことなく工場全体の問題として認識し,工場の全員が参加していく「全員参加の生産保全活動」,すなわちTPM(Total Productive Maintenance)活動が叫ばれ導入されてきた。

また,新設備の計画時から,設計部門で故障が生じない・保全しやすい・信頼性の高い設備の設計・製作をするとともに,予防保全活動のやり方も,タイムベースの保全から,設備が正常に稼動しているときに設備の診断を行ない,故障寸前まで設備を稼動させる予知保全(Predictive Maintenence)体制をつくりあげた。

製造現場のオペレーターは点検や小整備など保全の技能を身につけ,日常運転している設備を自分達で主体的にメンテナンスしていく体制をつくりあげた。この結果,保全部門は高度な技術を必要とする保全業務や保全技術の研究に専念できるようになった。

また,長い間RM活動で培ってきた土壌があり,TPM活動もRM活動と結びついて効果的に展開された。製造現場のオペレーターが身近な課題を取りあげて日常メンテナンス業務の改善に取り組む自主保全活動が盛りあがっていった。1983年(昭和58年)5月に日本プラントメンテナンス協会で発行された記念作文集で,あるオペレーターは「私達のTPM」として次のように発表している。

「私たちの職場は女子ばかり6人で,フィルムをせん孔する作業をしています。

数年前,TPMという言葉をはじめて聞いた時,『何のことか,何をするのか』とまったくわかりませんでした。そこで上司の人から何回も説明を聞きました。それは,TPMとはまず『自分たちの設備は自分たちの手で守る事だ』という事でした。これが基本で,自分たちがその気にならないと良い品質,故障の減少は実現しないと……。

私たちのTPM活動は,まず機械に慣れること,それには今まで関心のなかった機械の裏側の掃除から始まりました。まず掃除の時には整備用の服を着用しました。しかし,最初はこんな事さえみんなの抵抗がありました。『こんなの着るの……ヤダー!!』となかなか思うようにはいきませんでした。でも機械掃除をしていくうちに,作業着を別にしないと製品に油がついたり,ゴミつきがでる等が心配になり『やはり作業着は変えた方が良い』という事が良くわかりました。

今ではPM日といえば,私たちは進んで整備用の服を着るようになりました。ということは,自分なりにそれだけ機械に関心がもててきたのだと思っています。

そこで,まず手初めとして整備の人を交え,チェーン・ベルト・グリス等の勉強から入りました。掃除の仕方・注油・始業点検等整備の人の力を借り,完全にできるようになりました。そして掃除だけではものたりず,私たちの手でチェーンやベルト交換などもやろうということになり,自分たちの機械で実践を繰り返してきました。

その結果,今では自分たちのものになってきています。たとえば,月1回のPM日に,Vベルトのき裂を発見し,これを交換する事ができました。この時,その気になればたとえ女子でも『やればできるものだ』という事を体験の中から学びました。

TPMは次から次へとやることがあるものだと思います。ひとつできれば,人はその上を望むもので,私たちも次はスイッチ交換,プラグ修理,テーブルタップ作り,カッター交換,電気ドリルなどの使い方もできるのではないかと誰からともなく口走るようになりました。

そこで,また整備の人に相談したところ,みんながやる気があるのなら協力しましょうといってくれました。それからは実習・実践の繰り返しでした。

そして今では,私たちの手でできるまでになりました。次にはヒューズ交換と簡単な電気図面を読めるようにしようと計画しています。

作業をしていても以前は音など気にせずただ動かしていればいい,故障したら整備の人にきてもらい直してもらえばいい,という気持ちの私たちでしたが,今では『自分たちの故障は自分たちで』という気持ちで作業しているせいか,チョットした異音なども聞きわけ,故障がでる前にストップさせ,確認し,わからないところは整備の人に聞き納得して作業しています。(後略)」

TPM活動は,今や全工場をあげての活動になり,大きな成果をあげている。

なお,TPM活動の成果の一つとして,当社は,日本プラントエンジニア協会(現日本プラントメンテナンス協会)の「PM優秀事業場」の認定を受けることを目標としており,足柄工場が,1964年(昭和39年),この制度発足の第1回目の表彰を受けたのを皮切りに,小田原工場は1975年(昭和50年),富士宮工場は1977年(昭和52年),吉田南工場も1982年(昭和57年)に,それぞれPM優秀事業場賞を受賞した。

これらの成果のうえに,各工場とも,より一層,生産設備の効率的な稼動や生産管理体制の確立,製品品質の維持向上などを強力に推進している。

足柄工場における“Q-UP”運動とRM活動の活発化

[写真]Q-UP活動を伝える工場報(足柄工場)

Q-UP活動を伝える工場報(足柄工場)

1978年(昭和53年),足柄工場では「Q-UP」運動がスタートした。「Q-UP」というのは,工場全員の意識改革をねらって,日々の仕事の見直しと,その質(Quality)を向上させていこうという運動で,具体的なテーマとして,(1)品質意識の向上(2)ムダの排除(3)会議の効率化という三つの身近なテーマを掲げた。そしてこれらのテーマを中心として,各職場ごとの具体的課題を職場のグループで話し合う,あるいはRMのテーマとして取り上げ,その話し合いやRM活動を通じて日常の仕事への取り組み方の改善を図り,そのテーマの達成を推進していった。

この「Q-UP」運動を展開していく中で,各職場では率直な話し合いを行なって職場の中の身近な問題を発掘し,その原因を掘り下げて検討し,前向きに解決していく気運が醸成されていった。また,運動の推進の過程で,職場単位を超えた工場全体に共通する課題の解決のために,各職場を横断するチーム活動も盛りあがっていった。

RM活動は,これまで述べてきたような「QC活動」,「TPM活動」そして「Q-UP」運動の具体的な展開に当たって大きな役割を果たしてきた。この過程を通じて,RM活動自体も次第に工場全体の活動として広がりをみせ,毎年開催されるRM大会も活発になってきた。

最近のRM大会の事例発表の中で,次のように率直な実情を訴えた報告者もあった。

「私たちは,あるRMに取り組む際に,メンバー全員で話し合いを持ちました。その中で,『私達の職場で今やっているRMは,本当のRMではない。いつでも上長から問題を提起され,上長のいうなりに進められて,押しつけだと感じている。そんなRM活動だから,活動中でもあまりやっているという感じはないし,そんな活動経過では,達成感や満足感を味わうことなどとうていできない。RMというのは,自分達で問題を見つけ,みんなの力で解決することだと思う。』との意見が出されました。」

そして,この実情を反省して「自工程の問題点を解決していくためには,メンバーの人達と日ごろからかかわり合いを密にし,(中略)自分のやるべきことを認識し,自分のできることを精一杯努力し,お互いに協力し合い取り組むことが今私達がやらなければならないことだと考えます。」と,決意を述べていた。

目標を達成したときのすがすがしさを次のように発表している例もあった。

「本当にやって良かったという気持ちで一杯です。RMは,自主活動。(中略)だからこそ目標が達成できた時には,やりがいが生まれ,満足感が得られるのだ。この“やりがい”,“満足感”が自信につながり,さらに次の目標にチャレンジしてみようという気持ちに結びつくのだと思います。」

また,あるRMグループのリーダーからは,

「最初は,自分にRMリーダーが務まるか不安がありましたが,RMを進めていくうえで,色々な人々と知り合い,又,上司やグループメンバー一人一人がバックアップしてくれて,“やってよかったな”という感じです。そして,何かやっているという充実感のようなものを感じました。周りの仲間の目も輝いている感じで,課題を皆で達成することの中に,人間としてのつながりが増し,職場が明るくなるような気がします。」との喜びの言葉が語られた。

このような反省と努力が積み重ねられて,足柄工場のRM活動は,次第に工場全員の活動として根付いていった。

今日では,RM活動は,製造作業に直接携わる部門だけではなく,製造作業を支援する協力部門の職場でも,また,男子に負けずに女子のグループでも,身近な一つ一つの問題から具体的な課題を見出して,その解決にチャレンジしている。

各工場のRM活動と提案活動

[写真]3V活動を伝える工場報(小田原工場)

3V活動を伝える工場報(小田原工場)

足柄工場で始まったRM活動とTPM活動は,次第に各工場に広がっていった。各工場では,工場ごとの状況や課題に合わせ,独自の目標やスローガンを掲げて推進した。

小田原工場では,1972年(昭和47年)10月のRM大会を契機として,工場全体の運動へと広がった。「まず参加 みんなで出そう知恵と勇気」をスローガンとして開かれたこの大会以後,着実な工場運動として定着した。

1977年(昭和52年)10月には,Victory(勝利),Vitality(活力),Vividness(活気)を合言葉に「3V運動」がスタートした。3V運動は,「従業員全員が,イキイキとした仕事と職場生活により,イキイキとした工場をつくりあげ,それを通じて世界に冠たる商品を送り出す」ことを目標とするTQC活動であった。具体的には,

  1. 部・課・係・班ごとにそれぞれの課題を明確にするなど,各グループの組織活性化(タテの展開)
  2. 化成品,光学ガラス,磁気記録材料,PS版という四つの事業の中でそれぞれ機能 別の小グループを編成し,各部門に共通する諸問題や職場の課題解決に取り組む小集 団活動の活発化(ヨコの展開)
  3. 工場全体の整理整頓,仲間やお客様にあいさつを工場全体で実行する

というものであった。

[写真]富士宮工場第1回RM大会

富士宮工場第1回RM大会

[写真]吉田南工場スクラム400活動

吉田南工場スクラム400活動

3V運動の推進によって,小田原工場では,部門ごとの課題や目標がはっきりし,また,従来ともすれば没交渉であった部門間に親近感が生まれ,協力体制が強化された。また,RM活動も工場全体の活動へと広がっていった。

富士宮工場では,1972年(昭和47年)5月,第1回RM大会を開催した。キャッチフレーズは「輪から輪へ」,すなわち,同工場既存の紙事業と,新しく稼動を開始したX-レイフィルム事業との調和を図り,輪を一回り大きくしていこうということを工場全体のRM活動の一環として位置づけしようとするものであった。

次いで1976年(昭和51年)9月,TPM-RM活動をスタートさせた。第1次オイルショック以後の低成長期の中で「現有設備の高稼動化」が強く意識され,テーマも「稼動アップ」「ロス減少」「技能レベルアップ」と極めて具体的に取りあげられ,課題中心型のRMへの進展をみた。さらに,1979年(昭和54年)6月には「世界市場で競争できる品質・コスト」を実現させるため,FTC活動(富士宮ファミリー・ターゲット・チャレンジ活動)をスタートさせた。これは,TPM-RM活動で定着した課題中心型RMをさらに「少ないメンバー」で「より高い目標」「より早い納期」を目指すものにレベルアップさせたものであった。

また,吉田南工場では,1978年(昭和53年)5月,全工場あげて「スクラム400」がスタートした。これは,同工場400人の従業員がスクラムを組んで,「コストダウンと活力ある吉田南工場への変身」という目標に向かって,「今までのやり方を超えた行動を起こすこと」を目指す運動で,全員参加,小集団活動,新しい見方・考え方を基本として「みんなで見直そう」という「MM運動」として展開した。

さらに,吉田南工場では,1980年(昭和55年)1月から新たに「スクラム ’80」をスタートさせた。「スクラム’80」は,「スクラム400」の成果のうえに立って,世界一のPS版工場を目指して発展するための礎を築き上げる運動で,「工場全体を活性化しよう」「一人一人が成長しよう」を合言葉として,全工場運動として推進していった。

一方,提案活動も年を追うごとに活発化してきた。各工場ともTPM活動やRM活動の活発化によって,職場において,一人一人の仕事に取り組む意識が向上し,従来以上に問題の本質をつかむようになってきた結果,各職場における提案活動への取り組みもまたおう盛になった。

各自が自分自身の発想を育てるのはもちろんのこと,職場全体でブレーンストーミングを行ないながら,さらに発想の枠を広げ,そこから優れた提案が生まれてきた。

活発な提案によって,生産性向上と品質の改善,コストダウンといった直接的な効果はもちろん,常に改善を考えながら仕事を進めるという姿勢が醸成された。また,職場における改善事項の話し合いを通じて,職場内のコミュニケーションの良化が図られ,互いに協力し合う職場体質が作り上げられてきた効果も大きかった。

特に,最近では,職場の課題を一人一人の課題にブレークダウンし,その課題を解決するために多くの提案を出し合って成果を生み出すという活動が各工場で展開されつつある。

提案内容の充実とともに提案件数も増加し,1983年(昭和58年)には全社の提案件数は,年間10万件を超え,10年前の10倍以上の件数を数えるまでになった。

技術・技能開発の充実

[写真]技術研修所

技術研修所

[写真]技術研修所における研修

技術研修所における研修

当社は,1958年(昭和33年)7月,足柄工場に中学卒業の新入社員を対象に3か年の技能訓練を目的として技能者教習所を設立した。同教習所は,その後1962年(昭37年)4月,職業訓練法に基づく高等職業訓練校としての認定を受けた。

その後,高校進学率の高まりによって中学卒業者の採用が難しくなったのに伴い,1974年(昭和49年)3月をもって,高等職業訓練校としての役割を終了した。

この間,1972年(昭和47年)9月,生産技術革新の高度化に対応するため,機械設備に関する技能向上と現場作業者の技能適応力の開発・向上・再訓練の機関として,技能開発センターを設置した。

同センターには設備技能訓練科を設け,同年11月には足柄工場製造現場のオペレーターの再訓練を開始し,以後,全工場を対象として,加工部門のオペレーターにも対象を広げた。また,1974年(昭和49年)4月から工業高校卒業者対象の1年間の技能研修も開講した。

1976年(昭和51年)3月,技術技能研修の進展と一層の充実のために,新たに鉄筋コンクリート3階建の建物と教育設備を新設,名称も技術研修センターと改めた。教育環境の一新に伴って研修内容も拡充し,単に当社だけでなく,関係会社の従業員も含めて,写真・化学・制御・コンピューター・機械工作などの専門技術研修,製造・加工オペレーターの設備保全・故障対策を目的としたTPM研修,機器サービスエンジニア研修など,多方面にわたる研修の場として,技術・技能レベルの向上に大きな役割を果たしている。

なお,同センターは,1982年(昭和57年)11月,名称を技術研修所に変更,一層内容の充実に努めている。

安全活動の徹底

当社の生産活動は,写真感光材料の製造からくる暗室作業を伴う職場環境が多く,従業員の安全衛生については,創業当初から特に意を用いてきた。戦後は,製品の多様化や設備の大型化・スピードアップ・自動化などに対応して,各工場とも,工場長が率先して安全対策の検討に取り組み,作業環境の改善や安全施設の整備,安全上の諸対策の徹底に努め,安全教育活動に力を注いできた。

職場の安全衛生は,各職場における日常の安全点検や安全教育はもちろんのこと,従業員自身が,安全とは与えられるものではなく,自らがつくり出すものだとの意識に立つことが何よりも大切である。そのため,安全衛生についても,一人一人の努力で積極的に安全活動を工夫・実施してきた。RM活動を中心として職場全員で考え合うKYT(危険予知訓練)や各工場における安全大会の開催など,多くの安全活動を展開した。

これらの活動の成果として,各工場とも労働災害休業日数は大幅に減少した。このうち,足柄工場の成果を労働省表彰の無災害記録時間の最近の達成状況で示すと下表のとおりで,第4種無災害記録は,写真感光材料製造業としての無災害最長新記録でもある。

足柄工場無災害記録表彰

表彰の種類 達成時期
第1種無災害記録 430万時間 1978年(昭和53年)6月
第1種無災害記録 430万時間 1980年(昭和55年)1月
第1種無災害記録 430万時間 1981年(昭和56年)8月
第2種無災害記録 650万時間 1981年(昭和56年)11月
第3種無災害記録 980万時間 1982年(昭和57年)3月
第4種無災害記録 1,470万時間 1982年(昭和57年)8月
 
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