X-レイフィルムの高感度化と迅速処理化
結核撲滅に大きく貢献したX-レイフィルムは、1960年代に入って、消化器系の疾患など成人病予防対策に広く利用されるようになる。それに伴って、被ばく線量軽減のための高感度化と処理のスピードアップのための現像処理の迅速化が求められる。当社は、こうした要請に応えて、高感度品“AX”・改良品“KX”・間接撮影用の“FX”を発売、また、1966年(昭和41年)以降、順次PETベース品への切り替えを行ない、1968年(昭和43年)には、90秒処理用“RX”を商品化する。この間、自動現像機の輸入販売を開始、次いで自動現像機の自社開発を進める。そして、1967年(昭和42年)には、富士エックスレイ株式会社(現富士メディカルシステム株式会社)を発足させ、販売体制の強化を図る。
医療環境の変化とX-レイフィルムの高感度化
X-レイフィルムによる健康診断
1964年(昭和39年)
1960年代に入ると,医療をめぐる環境とX-レイフィルムの需要構造は大きく変わってきた。戦後の復興期も終わり,国民の生活水準の上昇につれ,健康に関する意識も年々高まってきた。国民の平均寿命も伸び,病院・診療所などの医療機関も増えてきた。医療保険の適用対象者は,1950年代後半から年々増加してきたが,1961年(昭和36年)4月には,国民皆保険制度が実施された。これらの要因が総合されて,国民が医療を受ける機会も増加し,わが国総医療費の額は年々増大していった。
一方,疾病の状況も大きく変わった。戦後,わが国の死亡順位や患者数で首位を占めてきた結核も,定期健康診断の普及による早期発見と,長年にわたる予防・治療対策が功を奏し,漸次,減少の一途をたどった。これに代わって,消化器系統の疾患など成人病が増加し,その予防対策として早期発見が重視され,胃の予防検診が各地で実施されるようになった。また,造影剤の進歩による血管造影撮影や,断層撮影診断法も発達し,健康保険の対象に繰り入れられた。診療機関におけるX線診断装置も普及してきた。国民体位の向上を反映し,X-レイフィルムのサイズも大型化した。
これらの諸要因が総合されて,X-レイフィルムの需要は年々増加していった。
一方,新しい撮影技術や診断技術の登場によって,新たな問題も生じてきた。胃部撮影などの場合には,1回の診断に多くの枚数の撮影が行なわれることも多く,患者に対する放射線の被ばく線量をいかに軽減するかが大きな課題となった。この対策の一つとして,X-レイフィルムの高感度化の要請が強くなってきた。
富士医療用X-レイフィルムAX
富士医療用X-レイフィルムKX
(TACベース品)
間接撮影用富士医療用
X-レイフィルムFX
こうした社会的ニーズに合わせて,当社は,高感度X-レイフィルムの開発を図り,1963年(昭和38年)12月,“富士医療用X-レイフィルムAX”を発売した。
“AX”は,感度を標準品の“PX”よりも70%アップさせたものである。したがって,露光時間を短縮することが可能となり,小児など動きやすい患者の撮影をはじめ,胸部・胃部撮影にも大きな威力を発揮した。
“AX”の発売に次いで,標準感度品の“PX”についても感度アップを図り,1964年(昭和39年)4月,“富士医療用X-レイフィルムKX”を発売した。“KX”は,“PX”よりも感度を20%高くして被ばく線量を軽減し,カブリも少なく,階調も豊富で使いやすくなった。また,定着乾燥速度,硬膜性を改良し,自動現像機適性にも改良を加えた。
このように,“KX”は品質上優れた特長を有し,国内市場における当社のトップシェアの確立に大きく貢献した。同時に,国際水準の製品として,輸出拡大の糸口を開いた商品であった。
一方,間接撮影用X-レイフィルムも高感度化を図った。1964年(昭和39年)9月には,従来品よりも感度を60%アップした改良品を発売した。1969年(昭和44年)2月には,オルソタイプの間接撮影用“富士医療用X-レイフィルムFX”を発売した。従来の間接撮影用X-レイフィルムがパンクロタイプであったのに対し,オルソタイプの高感度乳剤を開発することによって,赤色のセーフライトが使用でき,暗室内での作業性を向上させることができた。
また,“FX”は,コントラストを改良し,シャープネスを向上させ,さらに現像処理の迅速化を図り,自動現像機を用いれば3分30秒で現像処理できるようになった。
このように,当社は,被ばく線量軽減の方向に向けて,品質改良と新製品の整備を図っていった。
自動現像機の発売とPETべース品への切り換え
X-レイフィルムの高感度化と並行して,自動現像機の普及とそれによる現像処理の迅速化が進んでいった。
戦前から戦後にかけて,X-レイフィルムの現像処理は皿現像やタンク現像などの手作業に頼っていた。処理時間が長いうえに,人手を要し,夏期における湿度の高い暗室作業は健康のうえからも問題であった。現像処理を自動化し,処理時間を短縮できれば,X線写真診断の迅速化が可能であるばかりでなく,写真の仕上がりの均一化や省力化の効果も期待できる。
富士ハンガー型自動現像機
XP-1
こうした事情から,米国では,すでに1950年代から自動現像機が利用されていたが,当社でも自動現像機の開発に着手し,まず,1962年(昭和37年)3月,“富士ハンガー型自動現像機XP-1”を発売した。さらに,1964年(昭和39年)4月,“XP-1”を小型化した“富士ハンガー型自動現像機XP-H2”を発売した。
このハンガー型自動現像機は,フィルムをステンレス製の枠にクリップして機械に送り込むもので,処理後,フィルムをハンガーから取り外す煩雑さがあった。これに対し,同じころ,他社ではローラータイプの自動現像機が開発されていた。
ローラータイプの自動現像機は,撮影済みのフィルムを1枚ずつ挿入するだけで自動的に現像処理できる装置で,手間も少なく,設置面積も小さく,優れた特性を備えていた。
当社は,このローラータイプの自動現像機の開発に着手するとともに,米国パコ社と提携し,1964年(昭和39年)6月に“パコロールXM”,翌1965年(昭和40年)6月に“パコロールXF”の輸入販売を開始した。前者は大病院向けの大量処理機,後者は中規模病院以下を対象とした小型機であった。
また,この間には,自動現像機の通過性の向上と,フィルム通過時のローラーのいたみを防ぎ,フィルム同士を傷つけないためにX-レイフィルムのラウンドコーナー(フィルムの四隅を丸くカットすること)の検討を開始した。ラウンドコーナーは,1964年(昭和39年)9月から一部製品で実施し,1965年(昭和40年)8月から全面実施した。
富士医療用X-レイフィルム
KX(PETベース品)
一方,自動現像機の普及に伴ってフィルムベースのポリエステル(PET)化が始まった。TACべースに比べ,PETべースは腰が強く,平面性,機械強度,乾燥性に優れていた。これら諸特長が自動現像機に適しているために,外国品も次々とPETべースヘ切り換えられていたが,当社でも,1966年(昭和41年)11月,“KX(PET)”を出荷してPETべース品への切り換えを行なった。以降,逐次,品種ごとにPET品に切り換えていき,1969年(昭和44年)12月には全製品のPET化を完了した。
さらに,1971年(昭和46年)1月には,X-レイフィルム100枚入ノンインターリーフ(挟み紙のない内装方式)の新包装を商品化し,まず輸出向けから出荷を開始し,その後,順次,国内の大口使用先にも出荷を始めた。
現像処理の迅速化
富士医療用 X-レイフィルムRX
簡易型自動処理機RE
ローラー型自動現像機によるX-レイフィルムの現像処理時間は,当初,7分が一般的であった。しかし,1966年(昭和41年),デュポン社は3分30秒で現像処理ができるX-レイフィルムを発売。続いて翌1967年(昭和42年)には,コダック社が現像処理時間を90秒に短縮したX-レイフィルムを発売した。この結果,90秒処理時代に突入した。
この動きに対応して,当社は,1967年(昭和42年)5月,まず“KX”のTACべース品を,次いで9月にPETべース品を,それぞれ3分30秒処理に切り換えた。さらに,1968年(昭和43年)1月には,90秒処理用“富士医療用X-レイフィルムRX”を発売した。“RX”は,Rapid Process(迅速処理)のRをとって名付けたもので,自動現像機による90秒処理から,皿現像やタンク現像までできるユニバーサルタイプの標準品であり,その後,90秒処理品をRXシリーズとして品種を整備した。
一方,自動現像機についても,1967年(昭和42年)1月に,3分30秒処理用の自動現像機“パコロールXR”の輸入販売を開始し,同年8月には,待望の自社開発のローラータイプ自動現像機,3分30秒処理用の“富士X-レイプロセサーR”を発売した。
1968年(昭和43年)12月には,90秒処理用“パコロールXU”を輸入販売した。
このような動きの中で,自動現像機の普及はめざましく,従来,皿現像やタンク現像に頼ってきた小規模の病院や医院にも自動現像機の設置の気運が高まってきた。このニーズに対応して,当社は,簡便に使える処理機器の開発を進め,1970年(昭和45年)6月,現像から定着までを自動処理化した簡易型自動処理機“RE”を商品化した。この発売に当たっては,全国の医院に対して一大キャンペーンを展開し,X-レイフィルムの拡販とあわせて積極的な販売活動を行なった。
販売体制の強化
1961年(昭和36年)12月,X-レイフィルムの輸入が自由化され,輸入品の進出が活発化してきた。そこで当社は,販売ルートを強化することとし,まず第一に,戦前から取引契約を続けてきた写真感光材料特約店および直販店の取引ルートの見直しを行なった。そして,X-レイフィルム専門特約店として,従来からの千代田レントゲン,ワキタ商会に加えて,新たに西本レントゲン株式会社(現西本産業株式会社),株式会社コセキ商店,株式会社北村商会(現株式会社キタムラ),常光産業株式会社(現株式会社常光)と契約を結び,販売網を強化した。
1967年(昭和42年)10月には,医療用X-レイフィルムの販売部門を当社から分離して,富士エックスレイ株式会社に移管した。富士エックスレイ株式会社は,1965年(昭和40年)1月,富士機器販売株式会社として“パコロールXM”などパコ社製品の販売を目的として設立した会社であったが,X-レイ関係製品は,フィルム,機器,処理薬品をシステムとして販売する方が効率的であるところから,1967年(昭和42年)5月に社名を改め,次いで,この度,当社のX-レイフィルム販売部門と一体化したのであった。
富士エックスレイ株式会社の発足によって,同社を医療用X-レイ関係製品の国内総販売代理店とし,従来のX-レイフィルム販売特約店はいずれも富士エックスレイ株式会社と取引契約を締結した。
X線撮影法体系
同社は,その後,営業活動を積極的に展開した。直販店も増設し,販売ルートは一層強化され,海外有力メーカーの対日進出に対抗しうる体制を整えていった。
なお,この時期の普及関係で特筆すべきことは『X線撮影法体系』の編さんである。これは,富士X-レイ写真コンテストに代わって企画されたもので,1967年(昭和42年)から毎年1巻ずつ,合計3巻発刊した。同書は医療放射線撮影法を部位別に解説したもので,撮影技術に関する専門書として医師や放射線技師だけでなく,各界に大きな影響を与えた。