スチルカメラで独自の分野を - カメラの自動露光化とコンパクト化
1960年代に入って、各社で、35mmレンズシャッターカメラの露光の自動化(EE化)が進む。その中で当社は、1962年(昭和37年)、シャッター速度を自動補正する機構を加えた複式プログラムシャッター式AE機“フジカ35オートM”を開発し、内外の市場で好評を博す。さらに、1963年(昭和38年)、市場ニーズに合わせて、ハーフサイズカメラ“フジカハーフ”を発売する。1967年(昭和42年)には、小型軽量カメラ“フジカコンパクト35”を発売し、コンパクトカメラの先べんをつける。アフターサービス体制も整備していく。他方、1968年(昭和43年)には中判カメラ“フジカG690”を発売し、プロ写真の市場にも進出する。
35mmAEカメラ“フジカ35オートM”の開発
フジカ35オートM
カメラに露出計が組み込まれるようになったのは1950年代後半からであるが,1960年代になると,さらにシャッター速度や絞りと連動して,シャッターを押すだけで自動的に適正露光が得られるカメラの出現が望まれるようになった。この自動露光機能をもったカメラをElectric-Eyeの頭文字をとってEEカメラといい,各社とも競って開発を進めた。当社も,1961年(昭和36年)9月に“フジカ35SE”を改良して,シャッター速度優先のEEカメラ“フジカ35EE”を発売し,同年11月には,廉価で使いやすい“フジカ35オートマジック”を発売,ユーザーニーズに応えた。
次いで,1962年(昭和37年)3月,当社は,これまでのEEカメラの壁を破った世界最初の複式プログラムシャッターを装備した“フジカ35オートM”を開発し,国内と海外同時に発売した。
これまでのEEカメラは,シャッター速度をセットしてシャッターを切れば自動的に絞りが決定される方式か,被写体の明るさに対応してあらかじめプログラムされた一組の絞りとシャッター速度が自動的にセットされるプログラムシャッター式の機構であった。
しかし“フジカオートM”の複式プログラムシャッター機構は,シャッター速度がどこにセットされていても,まず絞りが調節され,絞りだけで調節しきれなくなるとシャッター速度が自動的に調節されて適正露光が得られるもので,EEカメラでありながら5種類の異なったプログラムを自由に選ぶことができる。AE(Automatic Exposure)カメラとも呼ばれ,国内市場はもちろん,海外市場でも好評を博した。
その後,1964年(昭和39年)9月には,露出計の受光感度をより高くするため,受光素子をセレン(Se)から硫化カドミウム(CdS)に換えた露出計組み込みの“フジカV2”を発売した。
ハーフサイズカメラ“フジカハーフ”の発売
フジカドライブ
35mm判フィルムの画面サイズは,縦24mm・横36mmである。このサイズを2つに切って,縦24mm・横18mmの画面サイズのカメラが普及したのは,1959年(昭和34年)のことで,ハーフサイズカメラあるいはペンサイズカメラと呼ばれるようになった。
ハーフサイズカメラは,カメラが比較的小型で携帯にも便利で,フルサイズカメラに比べ2倍の撮影枚数が得られることから,新たな需要を開拓し,また,サブカメラとして愛用者を増加していった。このため,カメラメーカーは相次いでハーフサイズカメラ市場に参入し,1963年(昭和38年)から,わが国のハーフサイズカメラの生産は急増した。1964年(昭和39年)には,ハーフサイズカメラの生産台数は35mmフルサイズのレンズシャッターカメラを上回るに至った。
当社も,これらユーザーのニーズに対応するため,1963年(昭和38年)11月,ハーフサイズカメラ“フジカハーフ”を発売した。続いて,翌年6月に“フジカドライブ”を,9月にはポケットや女性のハンドバックに入る世界最小のハーフサイズカメラ“フジカミニ”を発売,製品ラインの充実を図った。
“フジカハーフ”は,丸味のあるスマートなデザインで,レンズはF2.8 28mm,プログラムシャッター式EE機構を組み込み,また,ハーフサイズカメラとしては初めてセルフタイマーを装着した。
“フジカドライブ”は,カメラ底部にスプリング巻き上げ方式を採用し,シャッターボタン操作で連続18コマの巻き上げができる,今日のモータードライブのはしりともいえるカメラで,ストックホルム警察のパトロールカーに取り付けられるなど,ユニークな地歩を築いた。
しかし,ハーフサイズカメラでは,引伸しプリントをした場合シャープな画像が得にくく,また,20枚撮フィルム1本から一度に40枚のカラープリントをすることは,ユーザーにとってむしろ多すぎる場合もあった。折から,インスタマチックカメラがわが国にも導入され,また,35mmフルサイズカメラもコンパクト化されてきたことによって,ハーフサイズカメラは,その挟撃に合った形となり,1966年(昭和41年)ごろから需要が急激に減少し,当社も生産を中止した。35mmカメラの主体はコンパクトカメラヘと移っていった。
ラピッドシステムの開発
フジカラピッドS
ラピッドフィルム
35mm判フィルムをパトローネ入りに切り換えたことによって,フィルム装てんは容易にはなったが,それでも撮影後にフィルムを巻き戻さなければならないという不便もつきまとっていた。写真の需要をさらに拡大するためには,フィルム装てんと巻き戻しの簡易化を進めていくことが大きな課題であった。
1963年(昭和38年)のフォトキナで,コダック社は,インスタマチック方式という新システムを発表し,この課題にひとつの解答を出した。これは,コダパック・カートリッジフィルムとインスタマチックカメラからなるシステムで,フィルムをカートリッジ化することによって,フィルム装てんを簡易化するとともに,巻き戻しを不要にしたものであった。画面サイズは26mm×26mmの正方形で,126サイズと呼ばれ,誰でも簡単にフィルムを装てんでき,初心者でも気軽に写真を撮影することができるカメラとして,発表以来,話題を呼んだ。
このインスタマチック方式に対抗して,翌1964年(昭和39年),アグファ・ゲバルト社(西ドイツのアグファ社とベルギーのゲバルト社が同年7月合併して発足)は,35mm幅のロールフィルムを使用した簡易装てん方式“ラピッドシステム”を発表,世界のメーカーと協力して全世界に普及させようと呼びかけた。
ラピッドシステムは,フィルムは巻き取り軸のないカートリッジに入っていて,これをカメラに装てんして撮影すると,撮影済みフィルムが巻き取り側の同形の収納カートリッジに巻き込まれる方式である。撮影後巻き戻す必要はなく,空いたカートリッジは,再びフィルム収納用として使用するという簡易装てん方式をとっていた。
当社は,当時,甲南カメラ研究所の協力を得て,フィルム簡易装てんシステムを独自に研究中であったため,早速アグファ・ゲバルト社の呼びかけを検討するとともに,当社を含む代表的な国内カメラメーカー間で検討し合った結果,写真需要の拡大に役立つとして,その採用に踏み切ることになった。
そこで,当社を含めた国内カメラメーカー14社は,アグファ・ゲバルト社と技術提携を結び,日本ラピッド会を結成し,ラピッドカメラの開発を進めることになった。ヨーロッパでも十数社がこのシステムに参加した。当社も,ラピッドシステムの開発に積極的に取り組み,1965年(昭和40年)6月に,カメラ2機種(固定焦点レンズ付きの“フジカラピッドS”,露出計内蔵の“フジカラピッドS2”)と,カラー(ネガフィルムおよびリバーサルフィルム)・黒白(SSフィルムおよびSSSフィルム)合わせて4種類のフィルムを発売した。さらに,同年11月,ドライブ機構付きカメラを,翌年4月にフラッシュ機構付きカメラを,追加発売した。
しかし,ラピッドシステムが発売された1965年(昭和40年)は,オリンピックの翌年,いわゆる“40年不況”の年で,カメラ業界は不況カルテルを結成するほどで,在庫品の消化に忙殺され,この新規システムの広告などにも十分手が回らなかった。そのうえ,カメラ自体も,デザインや構造のうえからもう一つ魅力に欠けていたことも否めず,また,カメラ内部のフィルムの平面性にも問題があって,実際に発売してからの売れ行きは当初の予測をはるかに下回った。
海外市場でも同様で,アグファ・ゲバルト社の製品も伸び悩み状態であった。結局,このラピッドシステムはユーザーに普及するに至らず,間もなく当社はカメラの生産を中止したが,フィルムの供給は,ラピッドカメラ購入者のため,その後も少量ながら継続した。
コンパクトカメラ時代の幕開け
フジカコンパクト35
1966年(昭和41年)10月開催されたフォトキナ'66で,西ドイツのローライ社が,ハーフサイズカメラに匹敵する小型なフルサイズの35mmレンズシャッターカメラ“ローライ35”を発表し,35mmカメラ中級機の将来に一つの発展方向を示唆した。当社もこの小型化に注目して,これまで“フジカハーフ”や“フジカラピッド”などの開発で培ってきた要素技術を活用して,1967年(昭和42年)10月,“フジカコンパクト35”を発売した。
この“フジカコンパクト35”は,フルサイズの35mmカメラでありながら,440gと軽量で,レンズはF2.8 38mm,プログラムシャッター式EE機構を組み込み,国産カメラのコンパクト化への先駆となった。
その後,“フジカコンパクトD”(F1.8 45mmレンズ装着),“フジカコンパクトS”(セルフタイマー付き)などを発売し,コンパクトシリーズの充実を図っていった。
次いで,1970年(昭和45年)6月から,ボディーをプラスチック化して,このクラスでは最軽量の400gをきり,デザインを一新した“フジカライトコンパクト35”を発売し,コンパクトカメラの普及に努めた。
カメラの販売・サービス体制の整備
株式会社富士サービス
“フジカコンパクト35”の発売を機に,当社は,カメラ販売体制の強化を図った。これまで,当社カメラは,写真感光材料特約卸店がカメラの特約卸店を兼ね,この特約卸店を通じてカメラ小売販売店へ出荷していた。コンパクトカメラの発売に当たっては,新たに,地域ごとに取り扱い卸店(コンパクトカメラ地区代理店)を設定した。そして,当社のコンパクトカメラを重点的に販売するカメラ店(フジカコンパクト店)がメンバーとなって,各地にグループ(フジカコンパクト会)が結成された。このグループに参加するカメラ店は,その後次第に増加し,当社コンパクト製品の販売拡大に大きく貢献した。
一方,並行して,当社光学機器製品のアフターサービス体制も整備していった。戦後,カメラの発売当初は,各地の出張所において,現地の修理専門店に修理を委託していたが,1950年代後半に入って,35mmカメラの発売を契機に富士写真光機の応援を得て,東京・大阪両出張所に,それぞれリペアマンを配置し,ユーザーへの対応を図った。
1960年代に入り,フジカ製品の機種の増加・機能の高級化が進む一方,販売数量も増加するに及んで,アフターサービスの重要性を考えて,各出張所内にサービスステーションを設置した。そして,株式会社富士サービス,株式会社フジカサービスなどのアフターサービス専門会社の要員をそこに配置し,修理サービス業務を委託した。
その後,1973年(昭和48年)3月,当社は,富士サービスに全額出資して同社を当社の子会社とし,アフターサービス体制の一層の強化を図った。
営業写真用レンズの整備と中判カメラの発売
フジカG690
戦後間もない1950年代当初に,スタジオ撮影用の大判カメラ用レンズとして“レクター”(後に“フジナー”と改称)を発売して以来,営業写真の市場では,当社のレンズ類は高い信頼を得ていた。
1960年代後半に入り,スタジオでのカラー写真の撮影やコマーシャル写真が増加したのに伴い,カラー撮影に適合した高解像力の写場用レンズのニーズが増加してきた。当社は,このニーズに応えて新しいレンズの開発を進め,1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて,14種類のプロフェッショナル用“フジノンレンズ”を新発売した。
この分野では,各種のサイズのフィルムが使用されているが,当社は,フィルムのサイズ,レンズの包括角度(レンズが鮮明な像を結ぶ範囲),焦点距離の組み合わせを体系化して,少ない種類で広範囲な撮影が可能なようにシリーズ化を図った。広角レンズ(“フジノンW”)・超広角レンズ(“フジノンSW”),3つの波長の色収差補正ができるアポクロマートレンズ(“フジノンA”)など,各種のタイプを整備した。いずれも,色再現性も抜群で,濁りのない美しいカラーイメージが得られるものであった。
また,写真で記録することが日常化してきたことに伴って,営業写真館では,各種の行事・会合,学校の入学式や卒業式,観光地での記念写真などの集合写真の撮影のため,出張撮影する機会も多くなってきた。しかし,これらの撮影に,従来の大判カメラは,持ち運びや機動性・速写性の点から不便で,それに代わるカメラの開発が望まれていた。
このようなニーズに対応するため,当社は,35mmカメラスタイルの中判カメラ“フジカG690”を開発し,1968年(昭和43年)3月,第9回カメラショーに出品した。ボディーは35mmカメラよりひと回り大きく,ブローニー判フィルムを使用し,画面サイズは6cm×9cm,レンズ交換が可能な,距離計連動のレンズシャッター式カメラであった。標準レンズフジノンF3.5 100mmのほか,交換レンズとして,広角レンズ(フジノンF8 65mm)・望遠レンズ(フジノンF5.6 150mm,同180mm)を用意し,同年12月に発売した。
この中判カメラは,営業写真家,プロ作家や報道写真家に愛用され,国内外で好評を得ていった。