“ネオパンSS”の誕生とアマチュア写真需要の拡大
太平洋戦争で痛手を被った写真業界にも、ようやく回復の兆しが訪れる。国民生活の回復に伴って写真熱が高まりをみせ、カメラブームが訪れる。こうした中で、当社は、ロールフィルムの増産に努め、新製品“ネオパンSS”を発売する。また、印画紙、写真薬品でも品種の整備を進め、営業写真分野でも乾板からカットフィルムへの切り換えを実現し、総合写真感光材料メーカーとしての基盤を確固たるものにする。一方、写真需要拡大のため、積極的な普及・宣伝活動を行なう。その後、アマチュア用フィルムの需要は、ロールフィルムから35mm判フィルムに移行するが、当社は、品質保証の見地から、暗室装てん用の35mm判フィルムを、明るいところで装てんのできるパトローネ入りに切り換える。
写真業界の復興
終戦によって再び平和が訪れはしたものの、人びとは日々の生活に追われ、写真どころではなかった。
しかし、1945年(昭和20年)12月には、それまで写真感光材料の生産と配給とを一元的に統制してきた日本写真感光材料統制株式会社が解散し、卸業者が再び独立して、自由な営業活動を展開できるようになった。
これに伴い、1946年(昭和21年)、当社は、浅沼商会・近江屋写真用品・美篶商会をはじめ、戦前の写真感光材料特約店と契約を更改し、また、翌1947年(昭和22年)には、新たに、株式会社樫村洋行(現株式会社樫村)・敷島写真要品を特約店として加え、販売体制の再建を図った。
戦後のカメラ雑誌
なお、日本写真感光材料統制株式会社の解散に際し、写真感光材料メーカーは、業界の一致団結を図るため、1945年(昭和20年)12月、写真感光材料協議会を結成した。その後、1948年(昭和23年)4月には、同会は解散し、新たに写真工業懇話会が設立され、後に、1953年(昭和28年)7月、写真感光材料工業会と改称した。
1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて、まだ食糧不足や社会生活の混乱も続いていたが、その中で、徐々に、営業写真館は戦災で焼失したスタジオの再建に乗り出し、写真材料店も次第に店舗を整備して、営業活動を再開しはじめた。
当社をはじめ、各メーカーによって写真感光材料の生産が再開されたものの、原材料不足や、X-レイフィルム・映画用フィルムの優先生産によって、ロールフィルムの供給は不足がちであった。そのうえ、1947年(昭和22年)7月、GHQは、突如として、ロールフィルムの生産禁止を指令した。
この指令は、重点生産を要請されていたX-レイフィルム用の資材がロールフィルムの生産のために流用されているとの疑念に基づいてとられた措置で、翌年3月に解除となったものの、生産量の大半を、占領軍・官庁・新聞社などの需要先に優先して出荷することを必要としたので、市場では、一般向けフィルムは極端な品不足が続いた。
そのため、終戦後しばらくの間、ヤミ市では、軍から放出された航空用フィルムや間接撮影用X-レイフィルムが巻き直されて、一般撮影用として法外な価格で売買されたほどであった。
写真感光材料には、終戦時120%という高率の物品税が課せられていたうえ、戦後、原料費の著しい高騰など、インフレの影響を受け、製造コストが大幅に高くなっていた。このため、数次にわたって公定価格の改訂が行なわれ、ロールフィルムブローニー判(6cm×6cmサイズで12枚撮)1本の小売価格は、終戦時2円41銭であったが、1948年(昭和23年)7月末には、物品税率が50%となったものの、138円と高騰した。
激しく続いたインフレも、1949年(昭和24年)、米国ドッジ公使による超均衡予算政策により、ようやくおさまったが、それに伴って、日本経済は深刻な不況に包まれることになった。
この間、写真感光材料の生産は、1948年(昭和23年)ごろから徐々に回復に向かい、翌1949年(昭和24年)に入ってからは、一般用ロールフィルムの供給不足も次第に緩和され、同年秋には、一般市場への供給量も増加してきた。
敗戦後の窮乏の中で食糧の確保に追われていた人びとの生活も、このころからようやく安定を取り戻しつつあり、人びとの間にも写真需要が起こりかけてきた。
このように、需給状態も緩和されてきた中で、1950年(昭和25年)6月、公定価格制度は廃止されるに至った。
同じ年、1950年(昭和25年)6月、朝鮮動乱がぼっ発し、情勢は大きく変わった。特需の増大によって、鉱工業生産は増加し、日本経済は不況から抜け出し、戦後の混乱期にようやく終止符を打つことができた。
第1回写真の日式典
1951年(昭和26年)6月
ちょうどそのころ、朝鮮動乱の報道でわが国カメラの優秀性が認められたこともあって、アマチュア写真熱は次第に広がっていった。わが国のカメラの生産もようやく軌道に乗り、また、カメラ雑誌などの写真ジャーナリズムも活発化し、いわゆるカメラブーム時代が到来したのであった。写真に対する社会の関心の高まりの中で、業界各方面の意欲も盛り上がりつつあり、1951年(昭和26年)には、6月1日を「写真の日」と定め、以降、毎年この日に、内外に対する写真の認識を深めるための行事が催されるようになった。
この年、1951年(昭和26年)9月、対日平和条約が米国サンフランシスコで調印され、翌1952年(昭和27年)4月発効した。6年8か月にわたった占領時代が終わり、日本の主権が回復した。
“ネオパンSS”の発売
アマチュア写真需要が増大してきた1952年(昭和27年)4月、当社は、主力製品たるロールフィルムで、新製品“ネオパンSS”を発売した。
“ネオパンSS”は、感度ASA100(ASAとは、米国規格協会が定めた写真感度の表示規格)、従来の“ネオパン”の2.5倍の感度で、肉眼の感色性に近いオルソパンクロタイプのフィルムであり、ラチチュード(露光寛容度)の幅が広く、豊かな階調と優れた微粒子特性を兼ね備えていた。特に、従来のフィルムに比較して大幅に感度を高めたことは、早朝や薄暮・室内やスタジオでの人工撮影にも威力を発揮した。また、夜間撮影にも適し、アマチュアカメラマンだけでなく、報道、人物、記録写真などを撮影するプロフェッショナルユーザーにも愛用された。
翌1953年(昭和28年)3月には、35mm判フィルムでも、従来の“SP”を改良し、“ネオパンSS”を商品化した。
ネオパンS、SS、SSS、F(ロールフィルム)
ネオパンS、SS、SSS、F(35mm判)
“ネオパンSS”は、その後も、より高品質のフィルムへと改良を重ね、わが国の黒白フィルムを代表する製品として、今日までロングセラーを続けている。
“ネオパンSS”の商品化に続いて、当社は、ユーザーの多様なニーズに応えるべく、ロールフィルムのシリーズ化を図っていった。粒状性に優れた“ネオパンS”(感度ASA50)、高感度フィルム“ネオパンSSS”(スリーエス)(感度ASA200)、そして、超微粒子フィルム“ネオパンF”(感度ASA32)が、それであり、1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて相次いで発売した。
35mm判フィルムについても、1953年(昭和28年)から1958年(昭和33年)にかけて、“S”・“SS”・“SSS”・“F”と各品種を整備した。
“ネオパン”の各シリーズは、各方面で好評を博し、“S”・“SS”・“SSS”が、フィルムの感度を表わす記号として使われるほどになった。
印画紙、写真薬品の品種整備
写真処理薬品群
印画紙についても、生産量の回復・拡大を図るとともに、逐次、品種・面種・号数の整備を進め、また、“利根”・“フジブロマイド”をニュータイプ写真乳剤に切り換え、品質の向上を図った。紙厚も中厚手品、面種も絹目品を整備し、調子も超硬調品から軟調品までの各号数をそろえ、顧客のあらゆる要望に応えられるようになった。
一方、写真薬品については、戦時中から、ひょう量の手間のかからない調合剤を生産し軍用などに納入していたが、戦後は、一般用フィルム・印画紙およびX-レイフィルムの現像・定着用に各種の調合剤を整備してきた。
アマチュアが、自分で現像・焼付の処理をするのに便利なように、少量包装品も整備し、他方、大量使用先向けの大口包装品も整備した。
乾板からカットフィルムへ
富士ポートレートカットフィルム
営業写真館用には、創業以来、乾板を生産してきたが、戦後の1946年(昭和21年)10月、パンクロタイプの“富士ポートレートカットフィルム”を発売した。
乾板は、ガラス板に写真感光乳剤を塗布したもので、その性質上、破損事故の懸念や、保管スペース・携帯性など、取り扱い上の問題があった。これをフィルムに切り換えると、ユーザーにとっては、取り扱い上の問題が解消され、また、修整作業もしやすく、現像も容易であり、当社にとっても均一な製品を大量に生産できるメリットがあった。
戦後間もないころで、乾板用の良質なガラスの入手が困難であったこともあり、当社としては、安定供給の見地からも、乾板をフィルムに切り換えることを計画したのである。
カットフィルムの商品化に際しては、特に、湿度が高い場合の平面性の保持を配慮した。フィルムベースの厚みを厚くし、フィルムの写真乳剤側の反対側に、カーリング防止層を塗布するなどの対策をとり、また、カットフィルムを装てんする専用シースを同時に発売して、ユーザーの便宜を図った。
実際の切り換えに当たっては、全国の写真館を個別に訪問し、スタジオで、撮影から現像・焼付までの実験を繰り返すなど、積極的にカットフィルムの品質・取り扱い性などのセールスポイントを訴求していった。また、各地区の営業写真家の研究会にも参加し、サンプル配布・実技写真の展示・処理技術の説明など、あらゆる機会を利用して、普及活動を行なった。
その結果、ユーザーも、カットフィルムの品質・性能を理解し、乾板からカットフィルムに切り換えるところが次第に増えていった。
しかし、どうしても使い慣れた乾板でなければというユーザーのために、当社は、その後も当分の間、“富士パンクロ乾板”“A1(エーワン)乾板”の生産を継続した。しかし、その後、カットフィルムの性能が向上し、乾板の需要が減少したために、1967年(昭和42年)をもって一般用の乾板の製造を中止した。現在は、宇宙線記録用や学術研究用の特殊な乾板だけを受注生産している。
乾板からカットフィルムへの切り換えが進んでいった折、1950年(昭和25年)、思いもかけないトラブルが生じた。当社のカットフィルムに減感故障が発生したのである。
このクレームは、夏ごろから散発的に発生し、秋のシーズンに入って大きな声となって現われた。故障原因の調査・解明に手間どったが、原因が判明した時点で、当社は、即刻、市場にある全製品を回収する措置をとった。これは、顧客に対する迷惑を最小限にとどめることを最優先に考えたからである。
一方、改良品を一刻も早く製造・出荷すべく全力をあげた。そして、全国各地でおわびの会を開催し、席上、故障について率直に陳謝し、当面の対策を説明し、了解を求めた。
この故障は、当社にとって極めて残念なことであったが、この時の迅速にして適切な処置と、率直にして謙虚な態度は、当社の誠実さを示すものとして、顧客の協力も得られ、以降の当社の信用を高めることとなった。
その後、1951年(昭和26年)5月に、“富士ポートレートパンクロマチックSSカットフィルム”(感度ASA100)を発売し、1958年(昭和33年)には、フィルムベースを不燃性のTACベースに切り換えた。翌1959年(昭和34年)には、カットフィルムの名称を“シートフィルム”と改め、さらに、翌1960年(昭和35年)5月には、光量不足の際でも安心して写せる高感度製品として、“ネオパンSSSシートフィルム”(感度ASA200)を発売した。
一方、営業写真館向けの人像用印画紙“銀嶺”は、戦後、生産再開後、品質を改良し、また、微粒面、絹目などの品種を整備した。
販売体制の整備と普及活動の展開
再開した福岡出張所
再開した名古屋出張所
新設した札幌出張所
東京出張所の新事務所
大阪出張所ビル開館式
民間放送スタート時の当社CMソング
1950年代に入ると、メーカー各社の生産体制も整備されて、市場での販売競争が激しくなってきた。
当社は、戦後閉鎖していた福岡出張所を1948年(昭和23年)12月に、名古屋出張所を1949年(昭和24年)11月に、それぞれ再開し、1954年(昭和29年)9月には、新たに、札幌出張所を開設し、販売体制を整備し、営業活動を拡大していった。
なお、既設の東京出張所についても、1949年(昭和24年)1月と1953年(昭和28年)3月に事務所を増設し、また、大阪では、1953年(昭和28年)5月、富士フイルム大阪出張所ビルを新築開館し、営業活動の拠点を充実した。
また、写真需要層を拡大するため、積極的な普及宣伝活動を展開した。
1946年(昭和21年)10月には、戦時中休刊していた機関誌「写真と技術」を復活し、その後、各種の定期刊行物を復刊または創刊した。新聞広告の掲載・展示会への出品・PR映画の製作・ネオン広告塔の設置などによって、写真復興の機運を盛り上げていった。
写真教室の開催・撮影会など、アマチュア写真需要層を対象とした各種催し物の開催や協力・学生写真連盟や「フジフォト・フレンドサークル」の結成などアマチュアの写真クラブ活動に対するバックアップ、また、写真材料販売店を対象としたDP(写真の現像・焼付)研究会やカメラ店教室の開催など、写真の楽しさを訴求し、正しい写真知識の普及に努めた。
1950年(昭和25年)1月、当社は賞金総額100万円にのぼる懸賞写真を募集した「富士フォトコンテスト」の開催である。戦後5年目を迎え、人びとは困難な生活の中にも明るいものを求めてやまなかったので、募集にも“あかるく楽しい写真”というキャッチフレーズを用いた。カラー写真・アマチュア写真・プロフェッショナル写真・学生写真の4部門構成としたが、応募者数4,215名・応募点数8,118点と、わが国写真コンテスト史上、空前の応募者数を記録した。
「富士フォトコンテスト」は、その後、内容を充実しながら、毎年継続して実施し、年々盛んになっていった。1960年(昭和35年)からは、営業写真家を対象とした「富士営業写真コンテスト」を新たに設け、同時に、「富士8ミリシネコンテスト」もスタートした。その後、一時中断したこともあったが、1976年(昭和51年)以降は、プロ・アマチュア対象の富士フォトコンテストと、営業写真コンテスト、8ミリコンテストの3部門に分けて、今日まで継続し、優れた作品が多く権威あるコンテストとして高い評価を得ている。
1951年(昭和26年)には民間ラジオ放送が、次いで、1953年(昭和28年)にはテレビ放送がスタートした。当社は、早速、ラジオやテレビ放送という新しい広告媒体に着目し、これを利用した。
また、写真雑誌をはじめ、新聞・雑誌を広告媒体として活用してきたが、ロールフィルム“ネオパンSS”発売の翌年、1953年(昭和28年)には、週刊誌やグラフ雑誌を使って“一家に一台カメラを”のキャッチフレーズで、カメラと写真の普及宣伝に努めた。単に自社製品の広告だけではなく、写真需要の拡大を主体としたこの広告は、写真業界からも好感を寄せられた。
この年6月には、大型宣伝カー「ネオパン号」を誕生させた。“富士フイルム”の文字を側面に大きく入れた「ネオパン号」は、全国各地に出動して、地元の写真材料販売店を一軒一軒回り、その店の宣伝に努めると同時に、全国各地でさかんに催された撮影会などにも活躍した。
1957年(昭和32年)6月、当社は、東京数寄屋橋ショッピングセンターの一角に「富士フォトサロン」を開設し、その運営のために株式会社富士フォトサービスを設立した。「富士フォトサロン」には、製品展示場、映写室を常設し、写真展覧会を催して、写真の普及と当社製品の宣伝を行なうことにし、また、写真についての相談にも応じられる体制を整えた。
翌1958年(昭和33年)6月には、大阪にも同様のフォトサロンを開設した。
撮影会(大阪中の島公園)
富士フォトコンテスト応募作品の審査
35mm判フィルムの需要拡大とパトローネ入り製品への切り換え
戦後、画面サイズが6cm×6cm判のロールフィルムを使用するスプリングカメラ・二眼レフカメラを中心にカメラ需要が伸長し、カメラブームが訪れたが、1950年代に入ると、35mmカメラが徐々に増えはじめた。
1950年代半ばに至って、カメラメーカー各社は、相次いで廉価な普及型のレンズシャッター付35mmカメラを発売した。このカメラは、小型軽量で、携帯に便利であり、また、このカメラに使用する35mm判フィルムは、1本当たり撮影できる枚数が多いなどの長所が広く一般に認められ、1956年(昭和31年)には、35mmカメラの生産数量は、ロールフィルムを使用する6cm×6cm判のカメラの生産数量を上回った。これに伴い35mm判フィルムの使用量も増加し、フィルムの出荷量でも、1960年(昭和35年)には、35mm判フィルムがロールフィルムをしのぐようになった。
35mm判黒白フィルムの包装形式は、暗室装てん用とパトローネ入りの2種類がある。
フィルムに遮光紙をかぶせて缶に入れてある暗室装てん用フィルムは、カメラにフィルムを装てんする場合、暗室で、缶の中のフィルムをパトローネかマガジンに詰め替える作業を必要とする。この暗室装てん用フィルムは、パトローネ入りのフィルムと比較して販売価格が割安で、写真材料販売店では、暗室装てん用フィルムをパトローネに詰め替えて販売するようになり、このことが35mm判フィルムの需要を増加させる一つの要因ともなった。
このため、35mm判フィルムでは、暗室装てん用フィルムのウェイトが圧倒的に多くなっていた。
ところが、このパトローネに詰め替える作業は、作業中にフィルムに傷がついたり、思わぬ故障が発生したりして、当社製品の品質に対する信頼度が失われる恐れもあり、当社の信用を守るうえからも、ゆるがせにできない問題であった。
当社は、このような情勢を検討した結果、新聞社やプロ写真家向けなど専門家用の30.5m巻きフィルムを除き、当社製品の品質保証のために、35mm判フィルムをすべてパトローネ入りとすることとし、1961年(昭和36年)9月、新包装に切り換えて、全国一斉に発売した。新包装品の標準販売価格は、従来の暗室装てん用フィルムの価格に近い価格に設定し、実質的に大幅な値下げを断行し、この切り換えを円滑に進めた。
パトローネ入り35mm判フィルムの新包装と全日装化の説明記事
パッケージの基調色をグリーンに
1958年(昭和33年)、当社の商品パッケージは、大きくイメージを変えた。それまでは、当社製品のパッケージの色は、必ずしも全社的に統一されることなく、たとえば、ロールフィルムのパッケージはオレンジ・イエローなどの色を基調色としてきたが、ここに全商品の統一イメージとして、“グリーン”を基調色として採用したのである。
写真フィルムは、中身を開けて見ることのできない商品であり、消費者の信頼を得てはじめて購入してもらうことができる。パッケージは、その信頼を得るための商品の顔であり、他社商品と明確に差別するためにもパッケージの基調色を統一する必要がある。しかも、写真感光材料のパッケージは、黒白とカラーの区別や感度の差異など、製品の種類を識別する要素も持っているため、基調色はどんな識別色とも調和する色を選ぶ必要がある。
当社は、国内市場ではもちろん、これから海外市場に進出を始めるにあたり、企業イメージを高めるため、新しく全商品を統一する独創的な基調色を設定する計画を立て、調査・検討を重ね、次のように判断して、基調色をグリーンと設定した。
8mmフィルムのパッケージ
変更前(左)と、グリーンパッケージへの変更後(右)
- グリーンは、イメージが明るく、若々しく、これから成長しようとする当社のイメージにふさわしい。また、鮮やかなグリーンは、店頭陳列効果も高く、販売促進に高い効果がある。
- 色彩調査の結果、グリーンは、好き嫌いが片寄らず、広い範囲に好まれる色であり、世界各国の民俗性の面でも好まれる色である。
- グリーンの基調色は、国際市場においても独創的な商品イメージを発揮できる。
商品のパッケージデザインの切り換えに当たっては、まず、8mm・16mmカラーフィルムの外装箱にグリーンパッケージを採用して、市場調査を行なった。そして、1958年(昭和33年)秋に発売した一般用カラーネガフィルムを皮切りに、各製品の包装を、逐次、グリーンパッケージに切り換えていった。
その後、当社とグリーンのイメージのつながりは、年々市場に浸透し、基調色グリーンは、企業イメージを担う代表的な要素として、当社のコーポレートカラーに発展した。