日中戦争のぼっ発と戦時体制への移行
1937年(昭和12年)7月、日中戦争がぼっ発し、わが国は戦時体制に移行する。経済統制が実施され、写真感光材料の輸入が大幅に制限される。そのため、国内メーカーの市場が拡大し、当社も需要増に対処する。その後、日中戦争が長引くにしたがい、統制はますます厳しくなり、写真需要は停滞してくる。写真感光材料業界では、1941年(昭和16年)には、日本写真感光材料統制株式会社が設立される。この間、当社は、海外市場の開拓に注力し、満州(中国東北部)および中国大陸の市場へ進出する。一方、従業員の増大に伴って、福利厚生、従業員教育の充実を図る。産業報国会を結成し、時局に対応する。
日中戦争のぼっ発と輸入規制
1937年(昭和12年)7月7日、中国北京郊外の蘆溝橋で起こった発砲事件がきっかけで、日中両軍が衝突、これが発端となって日中戦争がぼっ発した。
わが国は戦時体制となり、経済統制が進められていった。同年9月、「輸出入品等臨時措置法」が公布され、カメラ、フィルム、印画紙、乾板などは、軍需用、医療用などを除いて輸入が禁止されることとなった。これによって、わが国に大きな市場を持つ外国メーカーは、わが国からの撤退を余儀なくされ、国内メーカーに市場拡大の好機を提供することになった。その結果、カメラ、フィルムなどの写真用品の1938年(昭和13年)の輸入額は、前年の4分の1に減少した。
なお、1937年(昭和12年)8月には、北支事件特別税(後の物品税)が課せられることになり、航空機用、X-レイ用を除く写真感光材料には、一律20%の税が課せられることになった。
映画の統制
日中戦争のぼっ発に伴い、映画界もまた、興行時間の制限、外国映画の輸入制限など、統制が強化されてきた。
1939年(昭和14年)10月「映画法」が施行され、映画の製作、配給、興行の全分野にわたっての統制は一段と強化され、脚本の事前検閲、文化映画・ニュース映画の強制上映などの措置がとられるようになった。
1940年(昭和15年)4月には、朝日、大毎東日、読売、同盟のニュース映画が統合、一元化され、社団法人日本ニュース映画社が設立された。同社は、翌年5月には、社団法人日本映画社と改組された。
さらに1941年(昭和16年)9月、映画を国策遂行の目的に活用するため、映画用フィルムの民需用の使用が制限された。劇映画会社は、松竹、東宝、大映の3社に統合され、製作本数も一段と制限された。
また、文化映画の製作各社も統合され、この機会に、当社練馬工場(富士スタジオ)は、1941年(昭和16年)、社団法人日本映画社に吸収され、当社から離れた。
このように、映画製作に関する統制が強化されてきたが、映画は、当時の唯一の大衆娯楽であり、また、国民の時局に関する認識を深めるものとして、日中戦争開始後も衰微することなく、観客数は増加していった。
戦時体制下、映画用フィルムの輸入規制が強化され、当社1社によって映画用フィルムを供給することになったので、当社は、ますます供給責任が重くなったことを痛感し、生産の増加に努めた。
一般写真感光材料の統制
ロールフィルム、印画紙など一般写真感光材料も統制された。
1939年(昭和14年)10月18日、政府は価格等統制令を公布し、物価・運賃などを同年9月18日現在の価格に凍結した。これによって、写真感光材料の価格も固定された。1940年(昭和15年)6月には、写真感光材料の公定価格が設定された。
この公定価格の設定を機に、写真感光材料メーカー各社は、1940年(昭和15年)6月、日本写真感光材料製造工業会を結成、資材の調達や業界全体としての生産計画の立案など、業界としての諸問題の解決に当たった。
1941年(昭和16年)8月、重要産業団体令が公布され、国防上重要とされる産業については、産業別に統制会が結成されることになった。写真感光材料業界は、この指定を受けなかったが、日本写真感光材料製造工業会では、時局がら、統制会を結成すべきであるとの声が強く、また、商工省の要請もあって、同工業会の改組について協議し、1941年(昭和16年)12月、新たに日本写真感光材料統制株式会社が創立された。当社の淺野社長は、同社の取締役に就任した。
また、カメラおよびその付属品の製造業者も団体結成の準備を進め、1941年(昭和16年)7月に、東京および関西の団体の連絡機関として全国写真機械製造工業連合会が結成された。
団体結成の動きは、卸売商、写真材料小売商にも及んだが、後に、太平洋戦争ぼっ発後は、統制は一段と強化され、1943年(昭和18年)1月には、日本写真感光材料販売株式会社が発足し、従来の卸機構は廃止された。さらに、翌1944年(昭和19年)3月には、日本写真感光材料販売株式会社は、日本写真感光材料統制株式会社に吸収合併され、生産から配給までの統制が一元化された。
日中戦争ぼっ発までの営業写真館は、正月写真、卒業写真、婚礼写真などの記念写真でおおむね順調な営業を続け、写真材料販売店も、写真愛好家に支えられて、良好な売れ行きを示していた。しかしながら、戦争ぼっ発に伴い、時局に対する遠慮から、民間行事も次第に自粛され、簡素化されて、営業写真館のスタジオは次第にさびれ、アマチュア写真家もカメラを持ち出す機会も少なくなってきた。
この写真需要の減退傾向は、その後、一時的に持ち直した。しかし、軍事機密の保持のために、写真撮影の制限も強化され、戦時体制が進むにつれて、写真需要は次第に沈滞していった。
満州(中国東北部)・中国への輸出
当社は、写真フィルムの国産化を目的に創立されたが、単に国内への供給ばかりではなく、いずれは世界市場へ打って出ることを目指していた。
そこで、製品が国内市場で受け入れられるようになると、時を同じくして、海外市場の調査を開始し、まず、満州(中国東北部)および中国本土への輸出を計画した。
海外市場の可能性調査では、1937年(昭和12年)、フィルムベースをイギリスとチェコスロバキアに送り、テストに供したのをはじめ、同年9月には、竹内覚二(後の富士天然色写真株式会社取締役社長)を欧米および東南アジア各国に派遣して市場調査を行なった。
インド向けに輸出したキネマポジフィルムのレーベル
大連出張所
また、1938年(昭和13年)には、映画用ポジフィルムを米国に送り、その評価を通して情報を得ることに努めた。その結果、米国の有力映画フィルム現像会社からの引き合いを受けるに至ったが、量的に当社の生産能力を上回り、また、価格面でも折合いがつかず、商談は成立しなかった。他方、当時米国に次ぐ大きな映画市場であったインドの映画会社から、映画用ポジフィルムの引き合いを受け、商社経由で若干の輸出を行なった。他の東南アジア地域へのフィルムや印画紙の輸出は、結局、成約をみるに至らなかった。
一方、満州(中国東北部)および中国本土への輸出は、この地域におけるおう盛な需要や、外国メーカーに比べての決済上の有利性などから急速に増大し、創立間もない当社の経営基盤を固めるために大きく貢献した。
これらの地域への輸出が伸展するにつれて、販売網の整備も行ない、1937年(昭和12年)4月、大連に出張員を置いた(同年12月大連出張所を開設)のをはじめ、同年11月には京城(現韓国ソウル)に出張員を置き(翌年3月、出張所を開設)、1938年(昭和13年)3月には、新京(現中国長春)に出張員事務所を開設した。
中国本土には、1939年(昭和14年)9月上海に、1940年(昭和15年)4月天津に、それぞれ出張員を派遣、その後1943年(昭和18年)12月には天津に出張所を開設し、販売活動の充実を図った。
この間、1938年(昭和13年)5月、大連で全満州写真材料商組合主催の国産カメラ写真用品展覧会が開かれ、当社もこれに積極的に参加し、同地域での市場開拓に当たった。
これら地域への販売は、ロールフィルム、印画紙、乾板、映画用フィルムなどが順調に伸び、1941年度(昭和16年度)には、全売上高に占める比率も20%近くに達した。
しかし、その後、太平洋戦争の戦火がわが国の周囲に及ぶに従って、これら各地の出張所も縮小し、やがて終戦を迎えることになった。
従業員の増大と産業報国会の結成
富士写真フイルム産業報国会結成式
産業報国会の活動
工場体操
足柄工場青年学校
当社は、創業時に、足柄工場に従業員の社宅を建設したほか、食堂、配給所、クラブハウス、運動場などの施設を設けるなど、発足当初から従業員の福利厚生には特に留意してきた。
その後、従業員数は年々増加し、1937年(昭和12年)3月には、1,000名を超えたが、日中戦争のぼっ発によって、従業員の就業の面でも影響が出てきた。1938年(昭和13年)4月、国家総動員法が公布され、翌1939年(昭和14年)には、賃金統制令、国民徴用令などが順次施行され、賃金の額や技術者・作業者の配置が、国家統制のもとに置かれるようになった。このような情勢下にもかかわらず、当社の従業員数は、工場の新設もあって、引き続き増加し、1941年(昭和16年)3月には、2,274名と、創立当初の7倍となった。
国家統制が強化される中で、従業員数の増大に伴って、当社は、従業員教育や福利厚生により一層細かい配慮を払った。
戦時体制措置の一つとして、政府の指導によって、戦時下の産業報国運動が推進され、産業報国会が組織されはじめた。当社においても、1939年(昭和14年)9月、新たに「富士写真フイルム産業報国会」が結成された。
当社の産業報国会の活動は、応召従業員への慰問品送付、出征軍人遺家族の農事手伝いなどのほか、工場全体または職場単位で、講習会、練成会を催した。体育面でも、産報体操、ラジオ体操などを毎日行なうほか、足柄工場では、箱根明神岳越えの強歩大会などを催した。さらに、特設防護団を編成して空襲被害の防止に努めた。
また、青年学校での就学が義務づけられたため、1939年(昭和14年)4月、足柄工場内に「私立富士写真フイルム青年学校」を開校し、その後、小田原工場にも、青年学校を設立した。
1941年(昭和16年)4月には、足柄、小田原両工場に、新たに技能者養成所を設置し、3年制による技能者養成教育を始めた。
この間、当社は、作業環境の改善にも注力した。1940年(昭和15年)6月から約1か年にわたり、作業台・照明の改善、作業の標準化、作業者の適正配置、交代制などについて、専門家に調査を依頼して改善案を求め、この提案を参考に、労働条件の改善に努めた。
また、1942年(昭和17年)2月には、水源地に近い丘の上に、付属診療所を開設した。小田原保健所長堀越敏雄を診療所長として迎え、作業員、家族の疾病治療に当たるほか、工場の衛生管理にも努めた。
付属診療所(開設当初)